●ホーリー・ソング Holi Song (Holiya Me Ude Re Gulal) このセッションの二日後にホーリー祭 (色粉や色水を掛け合う、豊作祈願の春祭り) を迎えることもあって、彼らが気を利かせて演奏してくれた。一番左の少年シンガー、バブー・カーン君がジャクソン・ファイヴ時代のマイケル・ジャクソンのようにソウルフルに歌い上げていたのが印象的。唄と演奏が噛み合わない箇所があるものの、何か熱いものが伝わってくる。
●スーフィ・バジャン Sufi Bhajan エンディング・クレジットはディーヌ・カーン氏の唄と演奏で締めくくる。バジャンとはヒンドゥー教の賛歌、ことにクリシュナ神やシヴァ神に対する深い愛情と帰依を歌うものであるが、スーフィ (イスラム神秘主義者) が唄うものはスーフィ・バジャンと言われているようだ。
リシケシュのラクシュマンジュラに滞在中、同じゲストハウスで出会ったモンゴル人女性のサラに誘われて、聖者シュリ・シュリ・ラヴィ・シャンカール Sri Sri Ravi Shankar(有名なシタール奏者とは別人)の講演に参加させていただくことになった。ラムジュラからさらに五キロほど南下して、会場となっているスワミ・スワッタントラナンド・アシュラム Swami Swatantranand Ashram まで乗り合いリクシャーを飛ばす。近所にはシャンカールの宿泊している施設があり、彼を一目見ようと大勢の人々が路地一体に群がっていて、その光景はさながらポップスターを熱狂的に愛するかの如くだった。
それまで寡黙だった人たちが、楽士たちの演奏に合わせて一気に歌を歌い始めるや否や、会場に大きなうねりが出始めてきた。勝手がよく分らないため、最初は楽士の後ろで大人しくしてこの光景を眺めていたのだが、スタッフの舞台ディレクターから自由に撮影してもよいとの許可をもらってからは、会場内をあちこち動き回って録り始めた。タブラやドーラクの激しい打楽器のリズムも相まって、会場はだんだんと熱気が籠ってきて、なんともただ事ではない雰囲気に・・・。 シバ神とその妃パールヴァティー神を讃えるバジャン “Bhole Ki Jai Jai”(偉大なる神)でそのうねりは頂点に達した。曲が進むにつれ、老若男女問わず皆が堪えきれずに立ち上がり、我も忘れんばかりに踊り狂い始める。対照的に瞑想している人も多く見かけ、同伴したサラも深い瞑想に入っている。あぁ...これこそがインド人の宗教的体験の神髄なのだ。自分も踊り出したい気持ちをグッと堪えて、冷静になって撮影に集中する。 黒人霊歌のゴスペル、ブラック・アフリカの礼拝歌、モロッコのグナワ、パキスタンのカッワーリ等、コール・アンド・レスポンスで宗教的な一体感を得る音楽は世界中で多く見受けられるが、今回のバジャンはそれらを凌駕していると思える程、パワフルでエキサティングで感動的なセッションだった。「ヒンドゥの本質は生きること、生きようとすることだ」という、インドの初代首相ネルーのことばそのものを感じ味わっている。
ハリドワールでの撮影初日、ハリ・キ・パウリ近くの対岸で、近郊の村から礼拝にやってきた素朴な農夫、ハリラール・タージと出会った。彼と一緒にサドゥのテントを訪問したり、岸辺で歌を唄ったり、果物を食べたりして、一緒に楽しく時を過ごしていた。最後に彼の通うアシュラムに連れて行かれ、そこで出会ったのがこのシュリ・ラム・ゴーパル・マハラージ Sri Ram Gopal Maharaj というデリーの聖者だった。父親シュリ・ハリ・プラサッド・マハラージ Sri Hari Prasad Maharaj も大物聖者だったそうだ。 ハリラールと一緒に謁見すると、グルがいきなり手持の札束を全額私の前にポンと差し出すではないか。応対に困っていると、ハリラールが「いいから受け取れ」と急かすようにアイコンタクト。突然の出来事に戸惑いながらも、この札束を恭しく頂いた。しかも札束だけでなく、インドでは滅多に見かけない高級感漂うお菓子の詰め合わせやら、彼の顔写真の入ったノートやらキーホルダーまでお土産に頂いてしまった。 一日中付き添ってくれたお礼にと、グルから頂いた札束をそのままハリラールに手渡そうとしたが、彼は頑として受け取ろうとしない。お菓子の方は、滞在ホテルに戻ってからスタッフやハリラールとで分け合って食べたが、豪華にも金箔が施されていて、インドのお菓子とは思えないほど美味だった。 グルから受け取った金はさすがに私欲のためには使えないので、後でリシケシュで出会った怪我の治療費の捻出に困っている老人に全額ドネイションした。グルもきっと旅人がそうすることを望んで私に金を託したのだと思うのだ。役目を果たす事が出来てやっと肩の荷が下りたと同時に、白隠の「因果一如」、道元の「修証一等」ということばがふと頭に過った。今行った行為の報いは、それと同時に受けているのだ。