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Roma_Hijras
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(画像:「ヒジュラ - インド第三の性/石川 武志(青弓社)」。インパクトのある表紙はもとより、本文中の写真にも衝撃を受けた。中には全裸のものも見受けられたが、卑猥さやグロテスクというよりもより完全なものに近づいている存在といった印象を受け、ヒジュラが聖俗の狭間を生きている特別な存在なのだと感じさせられた。それはまるで去勢により大地母神と崇められたギリシャ神話のアッティスのごとく、生命の根源的な象徴であるかのようにも思えてしまうのだ)



 ヒジュラ Hijras は半陰陽者であり、男児の誕生や婚礼の祝いの場において歌や踊りで祝福するシャーマン的な芸能者である。ヒジュラとして生きていくということは、出身カーストや家族を捨て、独自のコミュニティの中でカースト外の存在として生きていくことである。このコミュニティは日本のヤクザのような師弟関係(師匠はグル、弟子はチューラと呼ばれる)や縄張り意識を持ち、祝儀や売春で稼いだ売り上げはグルが管理するといった小社会を形成している。社会的に蔑視の対象と見なされているため、コミュニティを飛び出して一匹狼で生きていくことはとても困難なこととなる。
 ヒジュラにロマとの関連性を見出すのは少々強引かもしれないが、独自のコミュニティの中で生活していること、「穢れ」の対象として社会蔑視されているが、一転して祝いの席ではその「穢れ」によって悪いカルマを受け継いでくれることから必要とされていることなど、ロマの社会的立場にオーバーラップする点も見受けられる。

 そもそも現在のラジャスタン地方にヒジュラはいるのだろうか。資料によれば昔は多くいたそうだが、現在はアジメールにコミュニティを確認できる程度で、その数は少なくなっているようである。売春を大きな生活基盤とするデリーやカルカッタなどの都市部のヒジュラとは違い、ラジャスタン地方での彼(女)らは聖なる存在として人々から崇められている。ヒジュラの大半は青年期に去勢した後天的な存在なのだが、このラジャスタン地方では先天的な両性具有者であると未だに信じている人も多いと聞く(「ヒジュラ 男でも女でもなく/セレナ・ナンダ(青土社)」の第八章では、先天性の半陰陽として生まれた本物のヒジュラ、サリマについての記述があり興味深い内容だった)。

 前回のラジャスタン地方の旅では、残念ながらヒジュラに出会えなかった。インドでの結婚シーズンは十~十一月であり、私の滞在した二月~三月は目立ったセレモニーやフェスティバルがなかったのがその理由の一つなのだが、全く存在しないという感じではなさそうだった。ジャイサルメールのカラカール・コロニーにそびえ立つホテル・アーティストのスタッフに、撮影コーディネートの依頼をした際にヒジュラの話を打診してみた。この時は法外と思えるギャランティを提示してきたので結局は断らざるを得なかったが、時期が良ければ結婚シーズンやプジャ(祭り)でヒジュラに会うのは割と容易なのかもしれない。次回は是非とも会って交流してみたいものである。

 ラジャスタン地方ではヒジュラは聖なる存在とされていると前述したが、私が現地でそれとなくヒジュラの話を切り出すと、少し困ったような顔をされたり、「おまえはゲイか」などと嘲笑されることもあった。出来れば関わりたくない厄介な存在というのが、本音の部分で見え隠れしていた。
 ヒジュラは男児が生まれると生後二週間後にその家に押しかけて、その男児の悪いカルマを引き受ける儀式を行う。第三者から見たヒジュラの「穢れ」の度合いが大きければ大きいほど、その悪いカルマはより多く引き受けられ、男児の健康と長寿が約束されると考えられている。その儀式の返礼としての報酬を受け取るときには強気の姿勢で、相手の財政状況などお構いなしに提示額よりさらに高額の報酬を要求することもある(※1)。家人が支払いを拒むと、ヒジュラはサリーをたくし上げ、去勢した下半身を露出し、相手を侮辱したような卑猥な言葉を投げつける。時にはそれが呪いとなり本当に男児を死に至らしめることもあると聞く。ヒジュラは性器を除去することにより、自分に特別な力が備わったと信じているのだ。

 ロマ社会においても「穢れ」の観念を持つ。それはロマ関連の書籍(イザベル・フォンセーカ、イアン・ハンコック、ジュディス・オークリー、関口義人など)でも詳しく言及されているので、ここでは簡単に述べるに留めるが、その概念は身体、死、女性、飲食、衣類、そして人の行為などの面に適用される点からインドのカースト制度(※2)との類似点が見られ、インドがロマの源流であるということを感じさせるものでもある。
 ヒンドゥー信仰の下では、現在のカーストは前世の行いによって決まるとされ、良かれ悪しかれ今の身分を受け入れて生きていくしか道はない。現世を全うして「解脱」することにより、来世はより良いカーストに生まれかわるという輪廻思想を信じ、ほのかな期待を感じながらこの不条理の世界を生き抜く。だがロマにはこの輪廻思想を持ち合わせていないように思える。「今」が全てと考えるロマの思想は、インドからの長い漂泊生活の途中に出くわしたイスラム教やキリスト教の死生観を、方便とは思いつつも無意識のうちに受け入れてしまった結果なのかもしれない。

 スタヴローギン「きみはあの世の永生を信じているのですか?」
 キリーロフ「いや信じません。この世の永生を信じているんです」
(ドストエフスキー『悪霊』)


 男でも女でもない第三のジェンダーを持ち、シャーマニズムと穢れを背負い、この世をあの世を行き来できる特異な存在ヒジュラ。ロマが漂泊を止め定住化していくように、ヒジュラも変容するインド社会の中で消滅の道を辿っている(※3)。
 単一民族の島国である日本に暮らす我々は、異質なものとの共存には慣れておらず、結局は保守的な世界の中で、理想論として対外的な関係を語っているに過ぎない。一方インドは漂泊者もヒジュラも受け入れて、今日まで生き永らている。またひとつインドの奥深い側面を垣間みるのである。


【2010.9.7追記】本ブログ過去記事『ザ・ラジャスタン』音楽紀行 #039:ヒジュラに会えるか もご参照ください。


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※1. これは都市部での話で、ラジャスタン地方ではさほどシビアではないようだ。

※2. インドの中世社会、特に八~十世紀における社会基盤となったカースト制度の基本となるのが、「罪」と「穢れ」の概念であった。一九五〇年のインド共和国成立によってカーストは法的には全廃されたものの、現在に至るまで依然として強く生き残っており、カーストがインドの発展の妨げになっている原因の一つとしてあげられる。
 階層を超えた人との接触は「穢れ」の原因となる。ことに最下層であるシュードラおよび女性との接触は人を汚すと考えられた。また大きな罪を犯したり、先祖の罪の故に不可触民とされた係累の者との関わりも「穢れ」の理由となった。また異教徒との接触によっても人は「穢れ」を持つとされた。

※3. 多様性を持つインドでは近年、清潔で洗練された欧米思想がデリーなどの都市部の中間層に広まってきている。都市化による人間関係の希薄化、ストレス社会による自殺の増加、貧困層とのさらなる二極分化など、現在日本が抱えている問題が、このインドでも深刻になってきている。物質的に満たされた社会では「真の豊かさは何なのか」という問いが湧き上がる。そして宗教と生活が密接に繋がっているこのインドでは、宗教的価値の復興を説く「ヒンドゥー・ナショナリズム」が保守的な中高年の裕福層を中心に広まりつつある。ヒンドゥトゥワ(ヒンドゥーの本質・原理)は主張する人によってそのディティールが異なるが、根底には西洋社会やムスリム、マルクス主義者たちを敵視し、被害者意識を持っている。
 もしこのヒンドゥー・ナショナリズムが都市部だけでなく、ラジャスタン地方などハイブリッドな文化的特色が深い土地にまで影響を及ぼすと、土地に根付いている民族芸能にも影響を及ぼすことだろう。欧米思想が広まるにしろ、ヒンドゥー・ナショナリズムがそれを抑制するにしろ、インドにおける文化的な側面もこれから大きな変容の道を辿ることは免れないのかもしれない。この変容の道の中で漂泊民族やヒジュラたちは、はたしてどのように生き長らえていくのだろうか。

Roma_BlackMaria

(画像:サント・マリー教会の地下祭室に祀られている黒いサラの像。トニー・ガトリフ監督作品「ラッチョ・ドローム」より)



 南仏カマルグ地方の地中海に面した街、サント・マリー・ド・ラ・メールはロマの巡礼地としてその名を知られている。毎年五月下旬に開催されるサント・マリー祭で、サント・マリー教会の地下祭室に祀られている黒いサラの像を礼拝するために、彼らが大勢この土地に集まってくるのだ(※1)。蝋燭の光で浮かび上がったサラを抱きしめ、何度もキスを繰り返す。ロマの熱心な信仰のおかげで、サラの頬はケロイド状にただれてしまっている。トニー・ガトリフの映画「ラッチョ・ドローム」においても、黒いサラの像の御前で敬虔にギターをつま弾くフランスのロマ(ジタン)のシーンや、白い馬に乗ったカマルグ・ガルディアンの勇姿、司祭に囲まれてサラの像を担ぐロマなど、活気に溢れたフェスティバルのシーンは印象深かった。

 黒いサラは、キリストの処刑に立ち会った三人のマリア(マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、マリア・サロメ)の一人、マグダラのマリアの召使いであり、ユダヤ人に迫害され、パレスチナから櫓(ろ)も帆もない小舟に乗せられ、地中海を漂泊して奇跡的にこの地に流れ着いた。小ヤコブとヨセの母マリアとマリア・サロメ、そして彼女たちに従う黒いサラはこの地に残り、布教をした後に没したという古い伝承がある(※2)。この二人の聖女マリアたちの墓跡にサント・マリー教会が建てられ、九世紀にはイスラム勢力の侵略から備えるためにロマネスク様式の単純な要塞に改築され、一一三〇年には堅牢な要塞教会となって現在に至っている。
 十五世紀以降、サント・マリー教会はキリスト教徒の巡礼で賑わうようになったが、当時はロマの巡礼は許されていなかった。一八六二年に二人の聖マリアの像を創った時の御披露目式に数人のロマが参加したのを初めとして、一九一一年になって、ようやく九百人のロマによるサント・マリー教会への巡礼が許された。黒いサラが聖女として認められたのはごく最近のことであり、それは教会自らの慈悲によるものではなく、ガルディアンの英雄フォルコ・ド・バロンセリ侯爵が頑固な教会を説得し続け、一九三五年五月二四日のサント・マリー祭で初めて「黒いサラ」の像の行列を実現させたのである。しかし守護神サラに対するロマの熱い想いとは裏腹に、教会の対応は相変わらず冷ややかで、サラの像は二人の聖女マリーの像とは差別され、今でも教会の地下祭室に放置されているのである(※3)。

 そもそもガリア地方(現在のフランスとその周辺地域の古い名称)に点在する黒マリア像は、キリスト教との関連性は薄く、土着的な母神信仰をその起源とする。ロマにとってのキリスト教やイスラム教は、その土地で生活するための処世術に過ぎず、実際は偶像崇拝をその信仰としていた(※4)。
 そして、黒マリアについての最初の本格的研究「フランスの黒マリア その起源について」を発表したエミール・サイヤンが想像するように、黒いサラはインド神話のカーリー神でもあるという仮説は、ロマの源流をインドとする点から見ても興味深い。そもそもカーリー神は殺戮と破壊の象徴であり、南インドを中心とする土着の神の性質を習合したものとされる。仏教においてのカーリー神は大黒天(シバ神)の妃、大黒天女と呼ばれており、また日蓮上人の「観心本尊抄」では鬼子母神とされており、黒マリアの母神信仰との類似点をここにも見出せる。

 音楽や舞踊という芸能表現は、体内から湧き上がるエネルギーで破壊と創造を繰り返すことでもある。ストイックに練習を重ね、自分自身との対話に真摯に向き合っているような高レベルの表現者であればあるほど、人生や表現に対しての苦悩も比例して増す。彼らが心の拠り所として、クリエイティブな気持ちを保持できるような強い神を求めるのは必須である。そんなことからもインドの低カーストの楽士や舞踏家、芸能者がより土着的なカーリー神を信仰することは理に適っているし、西方に渡ったロマも、芸能を表現している時にはカーリー神のような地母神を無意識下で想起しているのかもしれない。実際にバルカン諸国や中央ヨーロッパのロマの間でも、カーリー神がポピュラーな存在であると聞く。このようなことから芸能表現においても、カーリー神と黒いサラは、ロマの変遷の重要な起点と終点になるのではないだろうか。

ここでインド・ラジャスタン地方の芸能者や楽士の信仰を挙げてみたい。

・ランガ:イスラム信仰
・マンガニヤール:イスラム信仰
・ジョーギー:ドゥルガー信仰
・カルベリア:ヒンドゥー信仰
・ボーパ:ヒンドゥー信仰

Roma_Kali パトロンたちを相手に演奏するランガのイスラム信仰は、彼らが西暦五~六世紀にアラブやアフガンから渡来したためと思われる。マンガニヤールとイスラム教の関わりについては不明だが、ランガと同根で後に枝分かれした可能性もあるし、カーストの縛りから逃れ、パトロンを得やすくするためにヒンドゥー教からイスラム教に改宗した可能性もある(※5)。漂泊民のジョーギーがドゥルガー信仰(※6)なのは肯けるし、カルベリアも公式にはヒンドゥー信仰とは言え、根本には蛇に関連したトーテミズム的性格を持っており、さらには地母神的なカーリー神を讃える気持ちを舞踏表現のときに抱いているのかもしれない。カルベリアの地を震わすような激しい踊りは、シバ神が体を張って止めたくなるに相応しいようにも思える(※7)。(【2008.4.20追記】ジョードプルのカルベリアのコミュニティを訪問した際に、信仰について彼らに尋ねたところ、ヒンズーの神の中ではシバ神が最重要であるとのこと。カーリー神は特に重要ではないという。ここに訂正いたします。)ちなみにヒンドゥー教にはナーガ(女性形はナーギニー)という蛇神がいるのだが、個人的にはどうもカルベリアとは結びつかない。さらにヒンドゥー教でポピュラーなサラスヴァティは芸術の女神とされているが、その洗練された優雅さは土着的な芸能表現とはどうも結びつかない。
 カーリー神はベンガル地方で篤く信仰されているが、ラジャスタン地方でも信者が多いと聞く。両地方の共通点を探ってみると、どちらも土地に根付いた民族芸能が盛んであることに気付かされる。このことからもカーリー信仰と芸能表現には密接な関係があるように思えるのだ。

 以上のことを踏まえて、信仰的側面からみたロマの変遷において、カーリー(またはドゥルガー)信仰は注目するに値する。インドにおいて最大の漂泊民族であるバンジャラ族は、公式にはヒンドゥー信仰だがその根本は偶像崇拝である。さらにデカン高原に点在するバンジャラ族の村々(ショラプル近くのバロジー・ナガール・タンダ村、オスマナバード近くのシバジー・ナガール・タンダ村など。タンダはバンジャラ族の幌馬車のことを指す。【2009.4.5追記】アンドラ・プラデシュ州のハイデラバード周辺、カルタナカ州のビジャプール周辺、マハラシュトラ州のショラプルやジャルガオン周辺。彼らは村から離れた場所で「タンダ」と呼ばれる集落を作って生活している)では、祈祷師がトランス状態に陥りながら黒い山羊を生け贄にするといった、シャーマニズム(※8)を基調とした原始的なドゥルガー信仰が残っている。祈祷師の書いた卍(まんじ)の中央に生け贄の山羊の頭と心臓を供え、四肢を切り取り四本の線に沿って置き、歌を歌い先祖を慰める(※9)。さらにデカン高原の奥地に入れば、ドゥルガー信仰が独自のシャーマニズムと融合し、たとえば人間を生け贄とするような過激な村も存在するのかもしれない。

 このように原始的な地母神信仰における、陶酔した宗教的恍惚状態に導く音楽は、舞踊や呪術的儀式と深く結びついており、インド全土で見られる。
 西ヒマラヤ、とくにクマオンやガルワールでは、アーリア人侵入以前の祭礼と関係のあるジャーガルと呼ばれる呪術的な儀式がある。ジャーガルは悪霊ブータの信仰と結びついており、ブータは人間や動物を占有し、またそれらを悪党や野獣の姿にして攻撃する力をそなえている。ジャーガルは悪魔払いの儀式であり、夜に限って催される。歌い手はドム(私説ロマ過去記事「ロマの流鏑の歴史」でも少し触れた不可触民)のカーストに属している。この儀式でもドールキやダムなどの太鼓のビートに合わせて、祈祷師がだんだんとトランス状態に陥り、一種の霊媒のような役割を果たす。
 同じように恍惚状態を引き起こす呪術的な舞踊は、インド東南部のポンデシェリー地方の漁村や、東北部のオーストロ・アジア系の先住民族であるサンタル族(※10)、スリランカの山岳ヴェッダ族(※11)などにも見られる。

 地母神的側面を持ったカーリーやドゥルガー信仰の彼らと同じような精神性を、古いガリア地方にも見出すことが出来る。ローマ文明の強い影響を受ける以前のケルト人は神殿を造るということはしなかった。彼らが崇拝していたのは神殿でも神像でもなく、彼らが神聖視していた特定の場所であった。神聖な場所とは、人間の目に見えない世界、神々の世界と接触することのできる場所でもあった。ドルイド(ケルト人社会の祭司)たちは中央に孤立した樫の木が聳えているような場所を特に重視し、祭儀の際には牡牛を生け贄として供え、時には両足を切断した人間をも樫の木に吊して供えたのである。黒マリアの像が、このような森の奥の樫の木近くで発見されたという伝承もいくつかある。
 またドルイドは、太陽や天体の軌道上の運行や四季のサイクル(循環)から円環の動きを見出し、それが輪廻転生思想へと発展していった。輪廻転生思想は当時のヨーロッパ文明には存在せず、ケルト独自の思想として際立っている。

 ヨーロッパのロマが、土地の教会や権力に保護された宗教を生きていくための方便として利用しつつも、実際はこのような土着的な母神信仰や黒いサラを、放浪生活における心の拠り所としていたと考えるほうがしっくりくる(※12)。


(次回予定:最終回『ヒジュラとロマ』/毎週木曜更新)
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※1. だがサント・マリー教会を巡礼するロマは年々減少しているようである。移動手段が幌馬車から自動車に代わり、ガソリン代がかかるようになったこと、雇われ仕事をする者も多くなり、休暇が思うように取れなくなってきたことなどが影響しているようだ。

※2. サント・マリー・ド・ラ・メール(海からのマリーたち)という土地の名称は、彼女たち二人のマリアの名前に因んで一八三九年に名付けられた。そして三人のマリアの残りの一人、マグダラのマリアはサン・ボーム山塊に赴いたという伝説が残されている。さらに小舟に同乗していたマルタはタラスコンへ、ラザロはマルセイユへ、マクシミヌスとケドニウスはエクス・アン・プロヴァンスへと赴いて、キリスト教の布教に努めたとされる。

※3. 南フランスの『陽光溢れる朗らかなプロヴァンス地方』というメルヘン調のイメージは、外国人観光客向けの謳い文句に過ぎず、実際は保守的で封建的な社会が根強く残っており、魔術、神秘、呪いが滲み付いたおどろおどろしい側面を持っている。
 十六世紀から十七世紀に最盛期を迎えた魔女裁判においては、物乞い、占い、魔術を扱うとされたロマも目をつけられ、プロヴァンス地方でも多数火あぶりの刑に処された。また大戦中のホロコーストにおいては、ユダヤ人だけでなく五十万人にのぼるロマも犠牲になったが、その背景ではフランス警察がドイツのナチ親衛隊に率先して、ドイツ占領下の北フランスのみならず、当時は半自由地区であった南フランスでもユダヤ人狩りやロマ狩りをして、二十世紀の魔女狩りが再開されたのであった。

※4. F.W.ニーチェは『アンチクリスト』で「自信を持っている民族は自分たちの神を持っている」と述べている。彼らが神を祀るのは自分たちの誇りのためであり、誇りを持っている民族は犠牲を捧げるために神を必要とする。そして感謝する相手は結局は自分自身なのである。こういった神は単純ではなく、味方であるだけでなく時として敵ともなる。悪いことにおいても善いことにおいても、神は必要とされるのである。それが本当の神の姿なのではないのだろうか。
 ニーチェの思想から見れば、ロマは「誇り高く自信を持っている」民族だと言えないだろうか。放浪先でたえず蔑視や嫌悪の標的にされつつも、それに屈せず民族が滅びずに生き長らえることは、並大抵の精神力ではない。彼らの心には善悪の価値観をも凌駕した「自分たちの神」が存在していたことは疑いようがない。もし彼らがルサンチマン的性格をもつキリスト教を本気で信仰し、原罪意識に悩まされながら放浪生活を続けていたならば、精神崩壊、さらには民族崩壊は免れなかったかもしれない。
 ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、それはイエス・キリストを批判したわけではなく、イエスの教えをパウロや教会が自分たちの権力獲得のために都合のいいように利用し、キリスト教やイスラエル、さらには人類の歴史までをでっちあげてしまったことを嘆いたのである。後にイスラム教を始めたムハンマドは「不死の信仰」をキリスト教から拝借して利用したが、これにもパウロと同質の腐敗臭が漂っている。
 イエスは「人間の救済」のために死んだのではなく、「人間はいかに生きるべきか」を教えるために死んだのである。イエスは仏教の教えと同じく「実行」を説いたのであるが、それがパウロにより「約束」の宗教として全く正反対の教えを持つキリスト教にでっちあげられてしまった。
 私はイエスの人生とロマの人生に共通点を見出している。両者とも自分自身と向き合いながら生きていた。第三者からは誤解され軽蔑の対象にもなったが、自身の揺るぎない強い信念のもと放浪人生を生き抜いた。ロマはキリスト教以前の本来のイエスの生き方、すなわち神と人間との一体化を実践しているように思える。極論すれば、ロマこそがイエスに最も近しい人なのかもしれない。さらにロマ Roma はその名の通り、キリスト教以前の健全な精神を持ったローマ帝国時代を無意識下で理想郷とし、そんな世界を探し求めて放浪を続けていたのかもしれない。ロマの定住化が進んできた現在となっては、そのような妄想も的外れなロマンチシズムに過ぎないのかもしれないが。

※5. ラジャスタン地方では「カーン」という名をよく耳にする。北インドではアフガン系の移民に、モンゴル族の最高の称号を示す「ハーン」が用いられていた。マンガニヤールなどのヒンドゥー教の下級カーストの楽士がこぞってイスラム教に改宗した際に「カーン」を名乗ったが、必ずしも彼らがアフガン系とは限らない。

※6. デカン高原の北部、ヴィンディヤ山脈地方の土着神。ドゥルガーはアスラの戦いの際、分身として額からカーリーを産んだ。カーリーやドゥルガー信仰はベンガル地方で盛んだが、私が訪問したラジャスタン地方ではより原始的な信仰として残っている印象を受けた。ラジャスタン地方の人々はドゥルガーのことをマータ Mata と呼んでいる。

※7. 一説には、アスラの戦いで勝ったカーリーは歓喜して勝利の舞を始めたが、あまりの激しさに大地が裂けそうになり、シヴァが衝撃を弱めるために下敷きになったとされる。

※8. シャーマニズムは、トランスのような異常心理状態で超自然的存在(神・精霊・死霊など)と交流し、予言、占い、治療行為などの役割を担う呪術師(シャーマン)を中心する呪術・宗教的形態のことである。
 シャーマンの語源はシベリア地域、ツングース民族の「サマン」とされ、ツングース語で「精神的に高揚し、感動し、高められた者」という意味を持つ。さらに語源を遡ると、古代インドのパーリ語の「シャマーナ」、あるいはサンスクリット語の「スラマーナ」に辿り着くという説もある。
 シャーマニズムは世界中で数多く見受けられるが、特にアジアはその宝庫である。韓国は最近またその熱が復活しているし、中国の少数民族や東南アジアにも多く見られる。さらにチベットやインドのラダック地方には非常に古いシャーマニズムが残っている。ヨーロッパではキリスト教圏にも関わらず、本記事でも触れている古代ケルトのドゥルイドなどのシャーマニズムが文化の深層において生き残っている。その他ナイジェリアのヨルバ民族、ハイチのブードゥー、キューバのサンテリーア、ボブ・マーリーで有名なジャマイカのラスタファリアなど挙げればきりがなく、その内容も多種多様で、シャーマニズムを細かく定義化することは難しい。
 日本にもシャーマニズムは見られ、青森県の恐山のイタコ、沖縄のユタやノロをはじめとし、沖縄久高島のイザイホウ、高知県物部村のいざなぎ流などが挙げられる。日本古来の信仰体系「神道」も起源はシャーマニズムであり、邪馬台国の卑弥呼や初期の天皇もシャーマンであった。シャーマニズムは現代日本にも存在しており、戦後の新興宗教やカルト教団に受け継がれている。
 シャーマニズムは単なる原始的な宗教的形態というよりも、高度な情報化社会において歯車の一部となったわれわれ現代人に「生の全体性」を自覚させる人間としての根源的なテーマを含んでいるように思う。それは細分化された知識ではなく、知識以前の未分化の叡智であり、禅の「中心のない無限大円環の中心」、インド哲学の「ブラフマン」にも通じるものではないだろうか。

※9. 神話によるとドゥルガー神は、デカン高原の北部ヴィンディヤ山脈地方の土着神であり。「マハーバーラタ」ではヴィンディヤ山に住む処女神で、悪魔(水牛マヒシャー)を殺し、酒、肉、動物などの生けにえを好むとされた。

※10. サンタル族の叩くドラミングはきわめて複雑である。民族音楽が古典音楽よりも単純であるとは一概に言えない。

※11. 山岳ヴェッダ族は楽器をもっておらず、手拍子あるいは身体を叩くことで、歌や舞踊の伴奏とした。歌の音域は高い音と低い音の二種類しかもたないが、合唱する時には各々が別々の歌を同時に歌うので、少人数でも大人数で歌っているように聞こえる。

※12. だがロマにとって重要なのは「今」であり、古代ケルト人の持つ輪廻思想は彼らに受け継がれてはいないようである。ロマの宗教観の個人的な見解は本文に述べた通りであるが、さらに補足※4でニーチェの思想に照らし合わせてみると、彼らが人間として根源的なものと向き合って生きていることを感じずにはいられない。

roma tribe

(画像【左】バンジャラ族の女性 /【右】ガドゥリヤ・ロハール族。「世界のジプシー/N・B・トマシェヴィッチ(恒文社)」から引用)



 二四〇近くあるインドの部族(※1)の中で、ロマとの繋がりを強く感じさせられるのがバンジャラ族 Banjara である。バンジャラ族はアフガニスタンの険しい山を通って、二三〇〇年前にラジャスタンの砂漠地帯に移動してきた部族といわれている(指定部族としてはオリッサ州に含まれる)。
 十四世紀になると、ムガール人の有力者は北インドからバンジャラ族を集めて南下を始めた。デカン高原を占領するにあたって自軍のための武器や食糧を彼らに運搬させたことから、バンジャラ族はデカン高原に定住化することになった。
 今日バンジャラ族の漂泊する生活様式は変化しつつあり、建築現場で道路工事や煉瓦運びに従事したり、家畜を捨て、農業に不適な荒れ地の村落に住み着いて、砂糖キビの精製などの季節労働に従事して生計を立てている。彼らの伝統的な慣習や風習や儀式は少しずつ変化しているにも関わらず、放浪本能は依然残っている。彼らは仕事を手に入れるために一時的な集落を作り、泥や竹を材料とした簡素な家を建て、臨機応変にどこでも移動する。自分の所有物をほとんど持たず、土器、小さなキルト、竹製のマットや木製の品物を製作する。また数は少ないながらも、真鍮や銅の容器も作っているようだ。若い世代は都市部で定職につきたがる傾向があり、ハイデラバードでリクシャードライバーなどの定職に就く者もいる。彼らは公式にはヒンドゥー信仰であるが、根本には偶像崇拝である。
 バンジャラ族の女性のファッションは他の部族よりもより一層際立っている。インデアン・パイサを縁に沿わせたスカーフ。髪飾りにはラクシュミー神の身代わりとされる子安貝。アルミニウムや銀で作った長いイヤリングや足首につけたアンクレット。金属製のブレスレットは既婚の印であり、一年ごとに一個ずつ加えて行く。ブレスレットの数で婚姻暦が分かるのだ。そして魔除け(さらに動物避け)の意味を込めた数多くのミラーワーク。刺繍を施すのは、灼熱の太陽での移動で布がすぐに傷んでしまわないように耐久性を増すという漂泊民の知恵なのである。その刺繍の模様の違いが各部族のアイデンティティともなっている。

 ガドゥリヤ・ロハール族 Gadoliya Lohar は、ラクダや牛を使って荷馬車で放浪する部族である。鍛冶屋を生業とし、かつてはマハラジャやその軍隊用に武器作りをしていた時代もあったが、今では金属製の壺と皿を売ってわずかな収入を得ている。ガドゥリヤは「荷馬車」、ロハールは「鉄」ないし「銅」の意味である。ロハール族の女性は、移動しない6月から9月の定住期間を利用して、市で買った(もしくは綿畑から失敬した)綿を糸車で紡ぎ、自分たちの長いスカートや家族の着るものを作る。彼女たちを特徴づける衣類の鮮やかな染色は、植物や草木から採集されたものである。
 現在ルーマニアでごくわずかに見られる幌馬車生活の放浪ロマ(今では彼らの大半がキャンピングカーを使用)とガドゥリヤ・ロハール族の生活は酷似しており、さらにルーマニアのロマが作る壺や皿などの金属製品が、ガドゥリヤ・ロハール族の作るそれと全く同じ物であったという報告例もある。ロマのルーツが、ラジャスタン地方であることが想像に難くない(※2)。トニー・ガトリフの映画「ラッチョ・ドローム」でもラジャスタン地方から荷馬車を用いて西へ移動するロマや、刃物を鋳造するシーンなど、ガドゥリヤ・ロハール族を思い出させるシーンをいくつも見ることができる。


【2010.9.7追記】ガドゥリヤ・ロハール族については、本ブログ内記事『ザ・ラジャスタン』音楽紀行 #005:テント集落のロハール族 でも触れているので、ご参考頂きたい。
 彼らが放浪生活を始めたのは、どうやら十六世紀半ば以降のようであり、ロマ民族が流鏑の旅を始めたとされている十世紀から十一世紀前半に西方へ向かったのは、あるいは別のグループであったのかもしれない。


(次回予定『黒いマリアとカーリー神』/毎週木曜更新)
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※1. 以下にラジャスタン地方周辺の重要な部族をいくつか列記しておく。
・ビール族:ドラヴィディアン族を起源とするラジャスタンの先住民族。言語学的側面からロマとの深い関係性も指摘されている。
・ブラフマン族:ドラヴィディアン族を起源とし、ヒンドゥーの祭祀を司る祭司としての職を努めた先住民族。
・ラージプート族:マハラジャ直属の武士階級として戦った誇り高い民族。
・メグワール族:ハリジャンの名をガンジーから与えられたラジャスタンの先住民族。
・ジェッツ族:イランから移住してカッチに住むムスリムの民。
・ラヴァリ族:マハラジャに使え、高度な刺繍の芸術性を持つラジャスタンやグジャラートの民
・アヒール族:クリシュナ王の子孫

※2. ジャイサルメール在住のインド人によると、現在のガドゥリヤ・ロハール族はジャイプールやウダイプールで暮らし、今でもキャラバン(その形態は不明)で移動する生活を続けているようである。ジャイサルメールにも二~三日間滞在することがあるそうだ。

roma fortview

(画像:ジャイサルメールの砦から眺める日の出直後の風景。太古からランガやマンガニヤールなど砂漠の楽士たちも、寺院やパトロンの元に通う途中に、この風景に慣れ親しんだのかもしれない。リクシャーが爆音をなびかせて走り回る昨今に比べ、遙か太古は閑静でさぞかし優雅な時間が流れていたことだろう。はたして砂漠の楽士たちは輪廻思想の下、自らを芸術的に高めることを心の拠り所として暮らしていたのだろうか)



『われわれインド人にとって、ヒンドゥーの音楽は、人間の魂と事物の背後にある魂との関係を歌う。ヨーロッパの音楽は、協和音と不協和音による奥深いハーモニーと、互いに分離した断片の結合によって、昼の世界を表現する。だがわれわれの音楽は、ひとつの、純粋な、深い、そしてもの柔らかなラーガによって、夜の世界を奏でる。このふたつの音楽は、どちらもわれわれを感動させるが、しかしおのおのの本性は、昼と夜、単一と変化、定まったものと不定なものというふうに、永遠にちがったものである』(ベンガルの詩聖タゴールのことば)


 インドの音楽には楽譜から音楽を再生する習慣はない。楽譜によっての再現は不可能であり、複雑なラーガ(旋律の法則)、ターラ(リズムの法則)はあくまで口頭伝承によって受け継がれてきた様式なのである。
 ラーガには時間、季節、表現される感情等も含まれ(※1)、演奏者が状況によって相応しいラーガを瞬時に選択する。西洋音楽理論にラーガを置き換えることは不可能であり(※2)、理論上3万7000種類とも6万5000種類とも言われる中のごく一握りのラーガを覚えるだけでも大変なことである(※3)。実際には300種類くらいが知られているに過ぎず、そのうち一般的なものはせいぜい100種類程度である。おそらくひとりの音楽家がそれなりの自信を持って演奏できるのは50種類くらい、完全にマスターしているものとなれば25種類くらい、さらに演奏の場において臨機応変に対応できるのはその中の5種類くらいなのである。ジョージ・ハリスンが志し半ばにして、シタールの学習を諦めてしまった気持ちも察することができよう。外国人にとって一見同じ味のように思えてしまうインド料理が、実際は各種のスパイスの調合具合で微妙に味が変わるといった繊細な側面は、まさに豊富な種類を持つラーガの多様性を表しているかのようだ。

 インドの音楽には西洋音楽で使う対位法や和音の概念はなく、ガマカ(装飾音)や微分音で音を彩る。それは無限の音色の変化、装飾音、ポルタメント、トレモロ、音の上げ下げを特徴として、インドの音楽の旋律線を柔らかなものにしている。対位法や和音を使う方が洗練された音楽ではないかと思われるかもしれないが、小泉文夫氏の見解によれば、千年とか万年という大きな人類の歴史からみれば、ハーモニーや対位法のある音楽は比較的プリミティヴな共同体的社会の中にあって、成熟した社会(原文は「発達した社会、高級な社会」)の中ではユニゾンが発達しているとされている(※4)。
 インド音楽の即興性はジャズに通じるものがあるが、ジャズは身体的・直接的なものであるのに対し、インド音楽はより哲学的および数学的な美しさを持つ。数学的な美しさはリズム奏者においてのターラで顕著に表現され、複雑なリズムをまるでコンピュターで計算したかのように叩き上げ、綺麗にサム(拍子の一拍目)に戻ったときには観客も演奏者もカタルシスを感じる。ターラは単に拍子をとること以上の役割を果たし、それは輪廻思想にも繋がる。使用ラーガの意味やターラの周期など、インド音楽理論を知れば知るほど、観客は演奏者の意図をダイレクトに汲み取り、音楽と一体化することができるのだ(ターラついての理論的な解説は、長くなるので今回は割愛します)。

 インド音楽と西洋音楽の融合を目指した音楽家も多く、ジャズ界においてはジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィスを筆頭として、ファラオ・サンダース、ジョン・マクラフリン、エリック・ドルフィー等数多く存在し、音楽と精神世界との架け橋を作った。
 またロック界においては、バーズ「霧の8マイル」、ローリング・ストーンズ「黒くぬれ」、ジェファーソン・エアプレイン「ホワイト・ラビット」、ドアーズ「ジ・エンド」などのラーガ・ロックというスタイルが60年代中盤に確立されたが、これは楽器を似せたりフレーズがなんとなくそれっぽかったりと直感的・表層的な表現に過ぎず、インド音楽を深く掘り下げたものではなかった。ロック界におけるインド音楽との融合は、ジョージ・ハリスンのアプローチがよりクリエイティヴで誠実なものではないかと個人的には思う(※5)。

 インドでは、民謡と芸術音楽や古典音楽の境界は実に曖昧である。あえて境界を設けるのであれば、意識的な文法が存在するか否か、つまり音楽理論に沿った確固とした構造を持っているか否かで判断できる。だがベンガルのキールタン、マハーラーシュトラのアバンガ、アーンドラのパダムなどの劇場音楽は、洗練された形式として常に挙げられるものの、厳密な意味では古典とは見なされない。これらのように適切な言葉を当てはめられないものに関しては、「伝統音楽」というカテゴリーを加える必要がありそうだ。
 さて、ラジャスタン地方の重要な音楽集団であるマンガニヤールやランガの演奏においても、ただ伝承されている民謡を歌うだけでなく、インド音楽理論を踏襲しているものも多く見受けられる。洗練された即興性を持つ彼らの音楽も、民謡というカテゴリーに押し込めずに伝統音楽と呼んで差し支えないのではないだろうか。実際にラージプート地方の民謡を起源とする「マーンド」mand という名のラーガも存在する(※6)。彼らの即興性においては、よりクールで形而上学的性格を持つ南インドのカルナータカ音楽よりも、感情表現が豊かな北インドのヒンドゥスターニ音楽の影響を垣間見ることが出来る。
 古典的なものと民族的なものが、砂漠という厳しい居住空間の中で融合し、それが肉体表現を伴った表現にまで昇華されたのが、ラジャスタン地方の民族芸能なのである。パトロンたちに仕えていた太古から、観光客相手に演奏する現代に至るまで、彼らはその表現を柔軟に時代に対応させて今日まで生き残ってきた。その臨機応変な柔軟性は、放浪先の土地の民衆に受け入れられるために、自らの音楽性を変幻自在に合わせてきたロマの生き方にも通じるものがあるのではないか。

 今日でもジプシー音楽が楽譜によってではなく、口頭伝承や世代継承によって受け継がれている理由が、このインド音楽による影響もあろうかと思う。即興性があるからこそ、マンネリズムに陥ることなしに一度だけの演奏に生命を爆発させる。過去でも未来でもなく「今」を生きることに重きを置くロマにとって、即興性は人生そのものの表現なのだ。


● 参考・引用文献1:世界の民族音楽辞典/若林忠宏(東京堂出版)
● 参考・引用文献2:インド音楽序説/B.C. デーヴァ(東方出版)


(次回予定『インドの放浪部族』/毎週木曜更新)
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※1. 例えばアヒール・バイラヴは「早朝」、ジャイトシュリーは「夕暮れ」、チャンドラカウンスは「深夜」、ジャヤント・サーラングは「雨期」のラーガである。
 近年、一般大衆向け演奏会の時間設定の制約、ラジオやテレビ放送などの制約、都市化による生活様式の変化などから、季節や時間によるラーガの束縛はだんだん緩くなってきている。また南インドのカルナータカ音楽においては、二、三の例外を除いて、ラーガの時間制約は全くない。
 ラーガの時間帯を一般的に決定する方法の一つとして、ラーガ内にシュッダ音(自然音)、コーマル音(変音)、ティーヴラ音(嬰音)が含まれるかどうかで判断するバートカンデーの研究法がある(他にも主要音の位置で判断する方法もある)。たとえば、「Db, E, Ab, B」を含む音階は、昼と夜が変わる薄明、たそがれの時間帯のラーガである。また「D, E, A, B」を持つ音階は、たそがれの後にやってくる朝、または夜の2番目の時間帯(夜の9時から深夜零時。後述)である。そして、朝あるいは夜の3番目と4番目(昼の12時から夕方の6時、あるいは深夜零時から早朝6時)の時間帯では「Eb, Bb」を含むラーガが演奏される(いずれも便宜上 KEY=C にて表記)。
 インドには一般に一日を8つの時間帯に分ける習慣があり、夜明けから順に3時間ごとに区切った1単位をパハル Pahr という。ヒンディー語の「アートン・パハル」は、8つのパハル、つまり24時間であるから、「一日中」という意味になる。ただし夜明けや日没の時間は季節によって一定ではないので、パハルの数え方も絶対的ではない。

※2. 西洋音階の「C D E F G A B C」相当するものは、インド音楽では「サリガマパダニサ」と表記される(Sa=シャドジャ、Ri=リシャバ、Ga=ガーンダーラ、Ma=マディヤマ、Pa=パンチャマ、Dha=ダイヴァタ、Ni=ニシャーダ)。しかしインド音楽には A=440Hz という絶対音の概念はないので「C=サ」とはならず、歌い手の音域において基調となる音が「サ」と定められる。
 基本的な面では西洋音楽理論に置き換えることも出来なくはなく、たとえばヒンドゥスターニー音楽における10の主要なタート(パターン)のうち7つは、西洋音楽のチャーチ・モードやコンポジット・モードに置き換えることは可能である(以下、便宜上 KEY=C にて表記)。

・ビラーヴァル・タート = Ionian(C, D, E, F, G, A, B, C)
・カマージ・タート = Mixolydian(C, D, E, F, G, A, Bb, C)
・カーフィー・タート = Dorian(C, D, Eb, F, G, A, Bb, C)
・アサーワリー・タート = Aeolian(C, D, Eb, F, G, Ab, Bb, C)
・バイラヴ・タート = Harmonic Minor(C, Db, E, F, G, Ab, B, C)
・バイラヴィ・タート = Phrigian(C, Db, Eb, F, G, Ab, Bb, C)
・カリヤーン・タート = Lydian(C, D, E, F#, G, A, B, C)
・マールワー・タート(C, Db, E, F#, G, A, B, C) = 該当無し
・プールヴィー・タート(C, Db, E, F#, G, Ab, B, C) = 該当無し
・トーディー・タート(C, Db, Eb, F#, G, Ab, B, C) = マカーム(アラブ音階)の「アサル・クルディ」と同じ

 しかしラーガには、上行(アーローハ)/下降(アヴァローハ)という考え方があったり、その他、固有の強調音、開始音(グラハ)、終始音(ニヤーサ)、旋律単位(パカル、チャラン、ターン、サンチャーラあるいはヴァルナ)、さらに四つの句読法すなわち、ヴァーディー(ラーガの使用音の中で最重要な音)、サンヴァーティー(ヴァーディーに対して4度ないし5度の関係にある音)、アヌヴァーティー(ヴァーディーとサンヴァーティーを除いた他の音)、ヴィヴァーディー(調和しない音)などの定義もあるため、西洋音楽理論に置き換えて考えることには限界があり、実践においてはナンセンスである(これはアラブ・中東圏で用いられる各種マカームにも言えることである)。


※3. 北インドのヒンドゥスターニ音楽では、ラーガが、10のタートまたは親の音階(ヴィシュヌ・ナラヤン・バートカンデ Vishnu Narayan Bhatkhande による)へ最近分類され、南インドのカルナータカ音楽では、72の親ラーガを誇示して、メーラカルタ melakarta 分類と呼ばれる、より古くより系統的な分類スキームを使用する。

※4. たとえば台湾国民政府成立までは首狩り族だった台湾の先住民族は、ポリフォニー(同じ旋律を各声部が模倣する歌唱法)で歌っており、首狩り前に合唱するハーモニーの完成度で狩りをするかどうかを決めていた。ハーモニーが揃わない時はチームワークが良くないので、戦いに負けてしまう可能性が大きいからである。またこうした多声合唱は、ボルネオのケニア族やインドの東部ナーガランドの山地民にも見らるし、ディレイ的効果を持つ多声合唱として、タイとミャンマー国境近くのアカ族の合唱やアイヌ民族のウポポがある。またリズムの多声性として、ボルネオのビダユ族やフィリピンのルソン島のカリンガ族が挙げられる。
 社会形態が王様による権力支配の段階になると、音楽はポリフォニーからユニゾンへと変化する。支配者の命令に従って、個人の都合や好みを無視して皆が同じ旋律を歌うということは文化的なのである。世界の四大文明(メソポタミア、エジプト、中国、インド)に関係する地域の音楽はユニゾンなのである。ヨーロッパは例外的にハーモニーや対位法を基本としているが、わずか数百年前までは、今日のヨーロッパ人を構成する大きな要素でもあったゲルマン民族のバイタリティを持っており、先に述べた首狩り族のようなポリフォニーの音楽だった。しかしその後急激な高度成長において、ユニゾンになる暇もなく、特殊な形で現在に至っている。これは東洋の音楽が、周辺諸国との交流を保ちながらも独自の孤立した音楽を育んだのに対し、ヨーロッパの音楽はルネッサンス後に、ベルギーやオランダ、ドイツ、フランス、イギリスなど音楽家がその時代の中心になった国に移動することにより、お互いに影響を受けながら、ひとまとめになって発達してきたという歴史があるためである。

※5. だが本家から見た彼らのインド音楽への接近は、少々辛口の反応である。たとえばラヴィ・シャンカールは、ジョン・コルトレーンの音楽を「個人的には好きだが、混乱に満ちている」とし、ジョージ・ハリスンに対しては「シタールという楽器をどう構えてよいか教わったに過ぎない」と、厳しいコメントを残している。

※6. 上行:C, E, D, F, E, G, F, A, B, A, C / 下降:C, A, B, G, A, F, G, E, F, C の音階を持つ(便宜上 KEY=C にて表記)。時間帯は常時。


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