
(画像: トニー・ガトリフ監督の「ベンゴ」より。ヘレスのカンテを代表するカンタオーラのラ・パケーラ・デ・ヘレスと、ギタリスタのパリージャ・デ・ヘレスが織りなすシギリージャスは重厚感に溢れ、聴き手の内面の闇の部分を深くえぐり出す。惜しくもラ・パケーラは2004年に血栓症のため他界)
さて第二回にして最終回の超私見フラメンコ論。今回はカンテ編です。
カンテ(歌)はフラメンコの真骨頂です。インドを出発して十五世紀にはアンダルシアに辿り着いたジプシー(スペインではヒターノと呼ばれる)たちは、定住化し始めた十八世紀にはカンテ・ヒターノを確立しました(詳しい内容は本ブログの『
私説ロマ:カルベリアとインド古典舞踊、そしてフラメンコ(2)の脚注5を参照ください』)。カンテ・ヒターノは迫害に対する怒りや叶わぬ恋など人生の不条理をテーマにしたもので、カンテの歌詞にこそフラメンコの本質を見ることができます。トケ(演奏)もバイレ(踊り)もパルマス(手拍子)も、カンテを彩るだけの道具に過ぎないのです。カンテと魂があれば、それだけで本物のフラメンコが表現できてしまいます。これって凄いことではないでしょうか。トニー・ガトリフ監督の「ラッチョ・ドローム」のエンディングでは、まさにインド的な風貌のヒターナのカンテオーラ、ラ・カイータが人生の不条理を独りで切なく力強く歌い上げるといった、フラメンコの本質がよく表現されています。
フラメンコの東洋性はインドからの長い漂泊の旅で培われたものであり、日本人がフラメンコを深く愛する根底には、遠く離れたスペインのアンダルシア地方に自分の血を感じるというロマンがあるからかもしれません。本ブログの『
私説ロマ:カルベリアとインド古典舞踊、そしてフラメンコ(1)』でも少し触れていますが、フラメンコは、その苦しそうなうたい方、激しいリズムとダイナミクス(強弱法)から、しばしば日本の三味線音楽の「新内節」とも比較されます。フラメンコでは、心変わりした女をなじる男心や、つかの間の愛におびえる傷つきやすい恋心をうたっており、新内では、道ならぬ恋ゆえの死出の旅や、愛のための自己犠牲を語っている。どちらも中心のテーマは「見果てぬ夢」であり、「満たされぬ愛」なのです。
日本の演歌もフラメンコ的でもありますが、湿気具合が対照的、すなわち演歌は湿度指数が高くフラメンコは低いように思います。また双方とも深く叙情的ではありますが、演歌ではさらに叙景的な側面が混じり合って一つの妖艶な世界を作り上げています。こんなことからも演歌に比べると新内節の方によりフラメンコ的なものを感じます。三味線の音色には湿気を感じないからかもしれません。フラメンコの湿度指数の低さは、アンダルシアという乾いた土地で生まれたという背景が大きな影響としてあるようにも思います。
面白いことに、トニー・ガトリフ監督の「ベンゴ」では日本の歌謡をフラメンコ的に表現するシーンがあります。前半の酒場のシーンで、マリア・ラ・コネーハ演じる娼婦が、黒沢明とロス・プリモスの「ラブ・ユー東京」を日本語で唄っていましたが、シラブルの使い方やリズム感が日本の歌謡とは違って、フラメンコ的な歌謡に変わっていることに興味を覚えます。またこの映画のワンシーンとエンディングで使われたレメディオス・シルバ・ピサの「NACI EN ALAMO(私はアラモで生まれた)」というスローなタンゴは、普段はあまり感じないような演歌に通じる湿度指数の高さも感じられ、カンテ・フラメンコの違った側面も伺い知ることが出来ます。
もし日本人としてカンテ・フラメンコを表現するのなら、母国語で表現することは重要なのではないかと思います。カンテに説得力がなければ、秀逸なギタープレイや派手な踊りといったフラメンコのほんの上っ面の部分しか日本人には伝わらないかもしれません。雰囲気で聴けたり表現出来てしまう洋楽ポップ・ミュージックとは違い、音楽そのものの内面を理解しようという視点がないと、フラメンコは本当の意味で理解されるのはなかなか難しいように思うのです。それには流行とはまた違った普遍的な言葉が必要なのです。『極説 三島由紀夫 切腹とフラメンコ(夏目書房)』で著者の板坂 剛氏は、日本文化とフラメンコを繋ぐ面白い試みをしています。以下に文章を引用します。
『私は数年前にスペインの若いフラメンコの歌手に、(藤原)定家の句を訳して教えたことがある。彼はたちどころにその訳詞をシギリージャという暗い特異なリズム構成の曲にして歌ってみせてくれた。日本的な無常観にあふれた詩が、フラメンコの歌手のしわがれた声によく似合っていた。
何故似合うのか。もちろん定家の句だけではない。芭蕉の句も正岡子規の句も(こちらが似合いそうなのをあらかじめ選んで教えたせいもあるが)、どれを歌わせても似合った。(中略)
フラメンコには東洋的な美意識や音楽性を感じさせる部分がある、とよく言われるが、それはジプシー(ロマニ族)の民族的成立の起源がインドにあり、フラメンコの原型になるイメージもインドにあるという点からくる当然の帰結である。また、短絡的であると批判されるのを承知で書くのだが、「平家物語」から「方丈記」、そして「奥の細道」へと続く日本文学の<無常観>路線の根底に流れる仏教の影響力を考えると、その<無常観>も日本的というよりはインド的といった方がいいのかもしれないが。』 そして板坂氏は日本の歴史の中でフラメンコに近いものとして「平家物語」を挙げています。以下さらに引用。
『日本の歴史の中で、フラメンコに最も近いものは何か?と訊かれた時、私はまず迷わずに「平家物語」と琵琶法師を例としてあげることにしている。社会からつまはじきにされた人たちが、秩序の外側から人間の根源にある<摂理>の空しさを語ることになる。この図式が「平家物語」と琵琶法師のとりあわせほど鮮やかに、しかも鋭利な感性を持って成就している例は他にはない。琵琶という楽器がインドから変化を重ねながら伝わってきたものであることも、同じようにインドからスペインにもたらされたギターと同様の役割を果たしている点も興味深い。
「源氏物語」と「平家物語」の決定的な差違は、前者が支配階級の娯楽としての文学という限定された読者を対象に書かれたものであるのに対し、後者が大衆的エンターテインメントとして、極端に言えば全国民を相手にすることを前提に創られた点だろう。そして「平家物語」といえばすぐに思い浮かぶのが、あの盲目の琵琶法師の弾き語りの姿である。当時の芸能は多くの無名の大道芸人に演じられることで存続していたが、いうまでもなく彼らは賤民である。琵琶法師ももちろんそこに含まれていたが、「平家物語」の大ヒットのおかげで、卑しい身分であるにもかかわらず、貴族の前で芸を披露するまでの地位を得ることができたといわれている。(中略)「平家物語」は芸能者=賤民と聴衆の長期間にわたる伝承の中でしだいに完成されていった。』 藤原定家のシギリージャス、平家物語と琵琶法師とフラメンコを繋げる見解に大きな説得力を感じました。これはフラメンコの本質的な側面をえぐったもので、日本国内におけるカンテ表現に必要な精神ではないかと思うのです。自国の古典に目をむけるという試みは、たとえばカマロンが1979年発表のアルバム「La leyenda del tiempo(時の伝説)」の中で、フェデリコ・ガルシア・ロルカの詩の引用を5曲にしています。同じように、日本でも古典回帰によりフラメンコに通じる精神を模索してみるのも大切なことのように思います。
板坂氏は定家の句をスペイン語に翻訳してスペイン人に教えたとしていますが、はたして彼らが叙情的なものと叙景的なものの微妙な関係によって生まれる美しさという、日本の古典の持つデリケートな感覚まで本当に理解出来ていたかには疑問が残ります。逆説的に言うと「もののあはれ」こそ、日本人が古来から持っている美しい感性であり、それをフラメンコに取り入れることは日本人のフラメンコ表現として説得力がより大きなものになるように思うのです。
ここで新古今和歌集の藤原定家の句から、シギリージャスのカンテに合うものを独断と偏見で選んでみました。
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梅の花にほひをうつす袖のうへに 軒漏る月のかげぞあらそふ(四十四番)
(解説:本歌の伊勢物語の世界をイメージとしている。梅の花のにほひの香る恋の世界と、そして、離別の悲しみの涙に光る月光の世界とが 艶なるうちに展開するのである)
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霜まよふ空にしをれし雁がねの かへるつばさに春雨ぞ降る(六十三番)
(解説:帰雁の悲しみの心を形象化したものであり、いかにも定家らしい言葉遣いをしている。帰雁の弱弱しいつばさに春雨の濡れそぼつシーンを加え、さらに一層悲しさが募る)
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待つ人のふもとの道は絶えぬらむ 軒端の杉に雪おもるなり(六百七十二番)
(解説:家の軒端の杉に雪が積もっている様を眼前にして思いをはせている歌である。待ち人がやってこない寂しさを内に秘めている。その寂しさが余情として存在している。眼前の風景の重苦しさとつながっているのである)
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玉ゆらの露もなみだもとどまらず 亡き人恋うるやどの秋風(七百八十八番)
(解説:母とともに暮らした日々を思い出し、しみじみと歌ったものである。人の世の悲しみ、無常の悲しみに思いは行き着く。その時、秋風がフット吹きぬける。「秋風」という体言止がこの歌の寂しさを定着させているのであろう)
スペイン語と日本語の文法の違い、特に動詞の位置の違いから、定家の句を実際にカンテ・フラメンコに昇華するのは、そんなに簡単なことではないと思います(たとえば句を倒置するとニュアンスが変わってしまう)が、現代詩にリライトするなどして試行錯誤する価値はあると思います。また新古今和歌集以外にも、近代現代の詩にも目を向けて、例えば松尾芭蕉、石川啄木、与謝野晶子、尾崎放哉、中原中也の作品とフラメンコの相性はどうだろうか、石川啄木はシギリージャス的だけど尾崎放哉はソレア的ではないか、などと想像するのも面白いと思います。カンテ・フラメンコは日本人の持つデリケートな文学的な感性により、新しい『ジャパニーズ・カンテ・フラメンコ』として表現する余地が残されているように思うのです。【完】
2008/02/14
フラメンコ
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(画像: 練習頻度が多い教則DVD『
La guitarra flamenca de Tomatito』。このトマティートのブレリアのファルセータ(彼やカマロンのアルバムから抜粋)やソレア・ポル・ブレリアはそのまま実践にも使えそうな魅力的なフレーズが多い。パロ別にじっくり練習するならマヌエル・サラド監督、マノロ・フランコ出演の『
Guitarra Flamencaシリーズ』がよさそうだ)
There is no accounting for tastes.(たで食う虫も好き好き)ということわざがありますが、二回に渡って超私見フラメンコ論を書いてみたいと思います。まずはギター編。
少年期から音楽を始め、ポピュラー音楽に傾倒していた時期が結構長かったのですが、仕事の忙しさにかまけてしばらくは音楽活動を中断。映像を作り始めた最近になってまた音楽熱が復活してきたものの、以前のようにリスナーとして音を楽しむことにはさほど魅力を感じなくなってしまいました。もはや口当たりの良いだけのポピュラー音楽には自己のリアリティを投影できなくなったのです。自分自身を削り取って創り出す音、いわば彫刻作品のような音にこそリアリティを感じるのです。これからの人生における音楽との関わりは「世界と自分との関係」の中で生み出される、体内から溢れ出す音に耳を傾けていくことでしょう。
そんな時期にフラメンコに興味を持ったのは、そこにインドから長い放浪生活の末アンダルシアに辿り着いたジプシー(この記事ではロマ表記よりもジプシー表記を優先します)の血や誇りを見たからです。魂の叫びという点では黒人ブルースが思い出されますが、フラメンコにはさらに民族としての誇りと芸術的な完成度が見受けられます。僕自身はジプシーになることすら出来ませんが、彼らの魂や誇りを「感じる」ことはできるのではないだろうか。さらに自分で演奏してみれば、少しは彼らに近づけるのではないかと。
・・・と、前置きが長くなりましたが、独学で始めたフラメンコ・ギターがだんだんと体に馴染んできた昨今、色々な技術や感覚がモノになるにつれいろいろな疑問が浮かび、それに対処すべく方法を模索する日々です。ポピュラー音楽の経験も踏まえてこれから自分はどうやってフラメンコ・ギターと付き合っていけばよいかを、自分なりに検証してみたいと思います。
(1)フラメンコ的ドライブ感が出ない ラスゲーアード、アルサプーア、ピカード、ゴルペ等、フラメンコの特殊な奏法をマスターした後は、アーティストのファルセータやエチュードを練習しています。譜面を使ったりリスニングでコピーすることはポピュラー音楽の時代からやってきていることなので、集中して何度も繰り返し練習すれば形になるのですが、フラメンコに関しては完全コピーして弾いてみても「何か」が違うことに気付かされます。もちろんゴルペをコンパスのタイミングで鳴らすことも意識しているし、決してリズム感も歌心も酷いというほどでもないのですが、自分のグルーブ感覚が微妙にフラメンコ的でないことを思い知らされました。ジプシーが先天的に持っている三拍子の馬のリズムを、どうやって後天的に自分の体に染みこませるか、それが大きな課題としてあります。打開策として以下の三つを考えてみました。
●
トケを徹底的に練習する:トケ(伴奏)を知らないでソロを弾くと、今までのポピュラー音楽のノリが無意識に出てしまい、フラメンコ的ドライブ感が出てこない。トケを習得すれば、ソロを弾いている時にも自分の内側でトケが鳴っているような感覚で演奏できるのではないか。
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コンパスを体で覚える:たとえばブレリアの基本コンパス「1 - 2 -
3 - 4 - 5 -
6 - 7 -
8 - 9 -
10 - 11 -
12」を演奏中に「いち、に、
さぁ〜ん」と頭で数えているうちはなかなかフラメンコ的ドライブ感が出てこない。その12拍をひとつのかたまり(パターン)として感覚的にゆらぎを体得できれば、フラメンコ的ドライブ感が出てくるのではないか。ゴルペも意識することなくコンパスと同じタイミングになるだろう。
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パーカションやパルマスでごまかさない:上記二点を習得しない内から、CD音源などでパーカッションやパルマスを流して練習しない。パーカッションやパルマスを入れることによってフラメンコ的ドライブ感は出るが、それにごまかされて、本当のギターの力量が見えずらくなってしまう。ギターだけでフラメンコ的ドライブ感が出せるまでは、メトロノームの方が有意義だろう。
(2)パロとコンパスがよく分からない ブレリアやシギリージャス、ソレア、タンゴなどは決めのフレーズが特徴的なので、数を聴いているとだんだんと分かってくるのですが、たとえばモダンなカマロンのカンテを聴いてすぐにパロが思いつかないものが多々あります。そしてその時のコンパスもよく分からず、パルマスもアレンジが複雑でお手上げになってしまい、混乱することもしばし。
この解決策はトラディショナルなカンテをたくさん聴き込んで基本を知ることが大切です。同じパロでも地方によっていろいろあるので、ブレリアならブレリアだけ地方ごとにいろいろなカンテを聴くといった方法がさらに効果的のようです。
(3)自分でファルセータを作ってみる 僕自身は他人の楽曲、たとえばパコ・デ・ルシアやトマティートの楽曲を人前で演奏しても、あまり満足感は得られないと思います。自分の表現ではないからです。下手でもいいから自分の楽曲で感情表現することが目標です。
フラメンコの場合は、ポピュラー音楽の作曲メソッドとはちょっと違うように思います。コードの押さえ方も独特なものが多く、コード進行も多様性があるというわけでもなく、伝統に則ってパターン化されているようにも思います。
ゴッホが浮世絵を模倣したように、好きなアーティストの楽曲やファルセータをたくさんコピーするのは大切でしょう。これはポピュラー音楽と同じです。でもただ闇雲にファルセータや楽曲を機械的にコピーするだけでは応用が利かないので、それを細かく分析することも必要です。ギタリストたちのフレーズのクセを見極めたり、印象的なフレーズはブツ切りにして他のパロに意識的に採り入れてみるのも良いかもしれません。ゴッホが浮世絵の模倣を経て試行錯誤の末、自分のスタイルを確立するのと似ていますね。
フラメンコで多用されるスケールは、教会旋法のフリジア旋法(T - m2 - m3 - P4 - P5 - m6 - m7)に長3度の音を加えた旋法(T - m2 - m3 - M3 - P4 - P5 - m6 - m7)であり、現在のコンポジット・モードでは「スパニッシュ・8ノート・スケール」と呼ばれているものです。M3の音がアラビックなテイストを感じさせる重要な音になりますね。このスケールをギターのフレット上で覚えるのが一番良いですが、例えばトマティートは「毎日かなり練習はするけど、スケール練習もエチュードの練習もしない」とインタービューで語っていて、彼が一体どんな方法で練習や曲作りをしているのか気になります。
とにかく自作の楽曲で表現しない限りは、僕はフラメンコという音楽にカタルシスを得られないのではないかと思います。
(4)独学で出来るのだろうか 近くに学べるところがあればスクールに通うことに越したことないです。ギター経験のない超初心者ならばなおさらです。ただ僕の場合は、近くにスクールがないために独学せざるを得ない状況で始めました。
最初はCD付きの教則本を購入しましたが、全く使いものになりませんでした。ラスゲアードの分解写真を見るだけでラスゲアードは弾けるようになりません。エチュードもある意味ではクラシック・ギターの奏法だけで弾けてしまうようなものばかりでした。初級のエチュードなんてつまらない曲ばかりだし、後で使えそうなフレーズもほとんど無いですね。
その後、インターネットでフラメンコのメソッドを動画で公開している親切な愛好家の方々のサイトや、YouTubeの動画を参考にして、基本的な奏法をマスターしました。それらを観るまではラスゲアードの弾き方は全く理解できませんでした。時間を割いてかなり練習しましたが、ここまで約二ヶ月を要しました。ここまでの基礎レベルはスクールで先生から教わった方が断然上達が早いと思います。
その後、
オスカル・エレーロのDVDの基礎編(ii)と(iii)を購入し、DVDによるメソッドでかなりしっかりと奏法を理解することが出来ました。やはり実際に演奏をしている映像を見るとかなり分かりやすいです。独学で始めるならこのDVDはオススメです。ラスゲアードなどの基本奏法を理解できると一気にフラメンコの世界が拡がります。現在は『
La guitarra flamenca de Tomatito』など、アーティストが実際に自作曲で使っているファルセータやエチュードを練習しています。これによりフラメンコの楽曲の構成や細かな理解が一層深まりました。ここまでで約五ヶ月です。
今となっては自分はスクールに通う必要はなかったと判断しています(通えば上達は早かったとも思いますが)。多くのスクールでは基礎を教えた後に楽曲やファルセータの練習に入ると思いますが、その時点でやることは市販の楽譜や各アーティストの教則DVDでやるのと同じ事になってしまうからです。譜面を先生から渡されて「じゃ来週までに練習してきて」の繰り返しになると、もはや金をドブに捨ててしまうようなものです。そこまで出来るようになれば、あとは独学で始めても良いのではないかと思います。魅力的なファルセータやレマーテの作り方を伝授してくれたり、精神的な面で語り合えるほどウマのあう先生ならばこの限りではないですけど。
独学のために自分を客観的に観られなくて困った時は、自分の演奏をビデオ撮影して、インターネットのフラメンコ関連のコミュニティにアップロードして、愛好家からの意見を仰ぐ方法もあるかと思います。独学では判断が独りよがりになりがちなので、客観的に判断してもらえる環境はとても貴重です。
(5)スペインに行けばもっと上手くなるか どうせやるなら本場で学びたいとは誰しも思うことでしょう。実際に僕も学校を調べ行動に移そうと思った時期もありますが、結局はすぐに飛び出すことは止めました。スペインは今までに何度か訪れてますし、スペインに行けばフラメンコがもっと分かるようになるというのは幻想だと思っているからです。
スペインで出来て日本で出来ないことはもちろん多いと思いますが、日本で出来ることも多いと思います。日本で出来ることを充分にやってからスペインに行っても遅くはないだろうと。それも留学という形でなくても構わないと思ってます。ヒターノ(ジプシー)が高い授業料を払ってまで学校でわざわざ奏法を習うでしょうか?インドの貧しい子供ですら英語が堪能なのはなぜでしょうか?彼らは人から人へ、親から子へと技術や知識を継承しているからです。ヒターノやインドの子供までとは言わないまでも、過剰な情報化社会である日本でなら、父親の代わりとなるメソッドは探せばいくらでもあります。ちなみに僕はデザインを職業にしていましたが、全くの独学で覚えました。それを職業としてやってこれたのは「熱意」にほかなりません。だから他のことも独学でできると思うのです。
効果的に学ぶ方法は例えば、自分のギター演奏のレベルがある程度のレベルに達してから渡西し、現地のマスターに評価してもらい悪い点やクセを短期間で集中的に直してもらうことは如何でしょうか。これなら一ヶ月も現地滞在すれば結構いろいろなことが出来そうです。
スペインで学ぶ以外にも、メソッド体系がしっかりと確立されているアメリカで学ぶのも良いかと思います。またインターネットでも英文サイトまで含めれば、フラメンコのメソッドに関してかなりの情報が得られます。今ではネット上でタブ譜付きの楽譜も入手可能ですし、タブ譜閲覧用のソフトウェアも色々選べるようです(マック用では
GuitarProや
tableditなどがオススメ)。
以前グラナダに数日滞在したときの話です。とあるタブラオにてフラメンコのライブ撮影を交渉する予定だったのですが、現地で風邪をこじらせてしまい実現には至りませんでした。日没後の街中のバルから漏れてくるパルマスと楽しそうなカンテ、アルバイシンの小さな広場で観たジプシーの子供たちのバイレなど、市井の人たちが楽しむ光景にはとても心惹かれました。ギターがなくてもフラメンコはフラメンコ。そしてカンテが主役とはいえ、バイレだけでもやはりフラメンコを感じました。体一つあればそれが表現になってしまう。単純なことなのに凄いことだと思いました。
僕が心惹かれるのは、ヒターノたちがストリートで自分たちのために楽しんでいるシンプルなフラメンコであることを確信しました。 次にアンダルシアに行くときは是非ともブレリアの発祥地ヘレスを訪れてみたいです。普段は静かな町ですが夜になるとバルでフラメンコを楽しむ人々で賑わいをみせるとのこと。異国の東洋人が一人でその輪の中に入っていくのはちょっとためらいますが、行ってみないことにはどうなるか分かりませんよね。
(次回予定『誰も書かないフラメンコ論【カンテ編】』/木曜更新)
2008/02/07
フラメンコ
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さてフラメンコ・ギターですが、昨年末のブログ関連記事を公開した直後に購入してしまいました。
まずは新品のレスター・デヴォーをオーダーしようと思い、ホームページから問い合わせてみたところ、やはり2年半から3年程の待ちで、しかも完成時には2007年比の10〜15%の値上げを見込んでいるとの返答。日米の経済も先行き不透明なこのご時世、待つことよりも値上げの方が辛いので、新品デヴォーは一旦保留に。
そして最近気になっていた
アーロン・グリーンとコンタクトを取ってみることを考えました。デヴォーと同価格帯のグリーンの日本国内での情報は皆無ですが、米国の関連フォーラムではデヴォーと同等かそれ以上の評価もある様子。でも自分が実際に両者を弾き比べた訳でもないので、情報をそのまま鵜呑みにするのは危険な面もあり、グリーンも一旦保留に。
その後、米国でコンディションの良さそうな中古のデヴォーを二本売りに出しているのを発見。一本は現地ミュージシャンの個人出品の2006年モデル、もう一本は別ギターの件で以前から何度か問い合わせをしていた
La Falsetaの委託販売の2002年モデル。
両者ともかなり綿密にメールでのやりとりを繰り返し、結局La Falsetaで2002年の木ペグ仕様のデヴォーを購入しました。実際に試奏した上で納得したギターを買うつもりだったため、リスクの大きい個人輸入での購入は自分でも驚きです(今までにたくさんのギターをオークションで売却してきましたが、現物を見ない上での購入は自分は絶対にしないと思っていただけに・・・)。二本のデヴォーとも、問い合わせには迅速かつ誠意ある対応で、信頼出来る相手だったことは幸いでした。両者とも複数のデヴォーを所有しており、このギター作家に対する愛情をひしひしと感じたことも購入の決め手となりました。
個人輸入はインターネット時代以前から何度も利用していますが、ギターに関してはリスクが大きすぎるので、他人には絶対に薦められませんけどね・・・。 年末に国際郵便為替にて送金、年始にテキサス州のLa Falsetaに届いた後すぐにFedExで発送してもらい、一月中旬には日本に届きました。税金については楽器は非関税で、消費税と
通関手数料 地方消費税のみ。税金支払いは電話連絡で指示を受け、銀行振込にて(カード決済も可)。FedExの税金支払いは以前は後払いだった記憶があるので、システムが変わったのかもしれません。現地発送から5日後に届きました。気圧や温度差等による輸送中の破損が懸念されましたが、梱包も万全で付属のTKLハードケースもギターにジャストサイズだったので、全く問題はありませんでした(真夏の運搬ならさらに不安が倍増だけど)。
新しい弦が張ってあったため、不安だった木ペグの精度についてはしばらく使っていかないとまだ分からない面もあります。チューニングにはコツが要るようで、ヘッド方面に力を入れながらペグを回し調弦しないと、木ペグが緩みチューンがすぐにベロベロに下がってしまいます。おまけにこのペグがかなり硬い。後でバイオリン用のコンポジション(または白墨)を塗布してみます。
マシンの方が使い勝手は良さそうですが、見た目は木ペグの方が「らしい」ですね。デヴォー自身も木ペグからマシンへの改造を自分で制作したギターで試したところ、音質の違いは分からなかったと報告しているし、彼も一本だけ選ぶなら木ペグにすると公言しています(アリアギターの海外クラシックギター製作家リストの
レスター・デヴォーのコラム後半でも、木ペグの精度について触れられています)。
全体的に作りがしっかりしていて、大きめの音量やブライトでモダンな音色、ラスゲアードのキレも自分には予想通り、いやそれ以上のギターでした。かなり歯切れの良い鋭角的な音を出してくれます。スペインのギターとはまた違った雰囲気を持っており、完成度の高いギターという印象を受けました。薔薇を散りばめたロゼッタのデザインも美しい・・・。デヴォーの美学や人となりが伺える一本です。
650mmが候補だったので655mmは少し長いかなとも思いましたが、さほど気にはなりませんでした。ブリッジの5弦辺りに円形状のラッカーの剥がれと、ブリッジに多少の修理跡があるという二点の不具合を予め了承していたものの、現物にはリペアが施してあって、全く修復跡も分からないほど完璧に直してありました。
想像以上に良いコンディションで、素晴らしいギターでした。さらに弾き込んでこのギターに不満が出る程にならないと、演奏者としてはまだまだ発展途上なのでしょうけどね。
しばらくはブレリアを中心に練習していこうと思ってます。難関はリズム感覚。アンダルシアの各地方のカンテをしっかり聞き込んでコンパスの違いを体に染みこませないと、フラメンコのフィーリングを出すのはなかなか難しそうですね。
● Lester DeVoe Negra 2002 Spec・ Top:European Spruce
・ Back & Sides:East Indian Rosewood
・ Neck:Spanish Cedar
・ Fingerboard:Ebony
・ Tuners:Pegs
・ Scale:655mm
・ Nut:53mm
・ Finish:Lacquer
2008/01/16
フラメンコ
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たまには趣味の話でも。
ギターが好きで12歳の頃から弾いているのですが(さほど巧くはないけどね)、仕事で独立した頃からさらに多忙な生活に追われ、演奏や作曲活動からだんだんと疎遠になってしまいました。デザイン業務を休業して映像作品のために音作りを始めた頃から、また音楽に対する情熱が蘇ってきて、今年の夏からはフラメンコ・ギターを始めました。
フラメンコ・ギターはクラシック・ギターから転向する人が多いようですが、ラスゲアードやゴルペ、ピカード、アルサプーアなど、他のギターにないアグレッシヴな奏法が魅力で、ぼくにとってはロック・ギターの延長線上とも捉えられます。独学で覚えるには難しいジャンルなのですが、教則DVDやインターネットを利用すればなんとかモノになる気もしたので、まずは独学でチャレンジしています。
CD付き教則本や
オスカル・エレーロのDVDで基礎中の基礎から始めてみたものの、単調な反復練習のため一時は挫折しそうになりました。なんとか数ヶ月間我慢して基礎練習をとことん繰り返し、リズム感覚を体に染みこませて、一気に中級・上級向けのトマティートのファルセータを弾き始めた最近になってだんだんと楽しくなってきました。難易度はかなり高いですが、彼のファルセータはエモーショナルでロック的なアプローチも感じられ、弾きこなせると気持ちが良いです。まぁ所詮は趣味なので下手でも自分が楽しければそれでいいんですよ。これからずっと続けられそうな手応えも感じています。
フラメンコ・ギタリストはそんなに多くを聴いてきたわけではないけど、サビーカスやカルロス・モントーヤ、マノーロ・サンルーカルのような正統派の技巧組よりも、初期のトマティートやビセンテ・アミーゴのようなモダンでどことなくロック・フィーリングが感じられるプレイヤーがぼくの好みのようです(でも彼らのフュージョン的要素はあまり好みではないかも)。パコ・デ・ルシアはどちらにも当てはまって凄いと思いますが、凄すぎて逆にのめり込めない感じかも。
クラシック・ギター寄りのプレイヤーは、フレーズやリズムも正確で確かに技術は素晴らしく、独特の様式美を感じさせられるものの、非の打ち所のない完璧さが人間味に欠けてなんだか面白くない(クラシック界には山下和仁のような凄いプレイヤーもいるけど)。エモーショナル溢れるロックが好きだった自分(もはや過去形ですね)にとっては、様式美そのものにどうにも抵抗を感じるようです。巧すぎる演奏が自分の心に響いてこないのは、自分が不完全な人間だからかもしれないけど。
実はまだフラメンコ・ギターは所有していなくて、家にあったエレクトリック・ガットギターにゴルペ板を貼って練習しています。ボディがソリッドでレスポール並の重さであること(当然生音は鳴らない)、ネックの肉厚がエレキ風でグリップ感に変なクセがついてしまいそうなことから、早くフラメンコ・ギターを買いたくて探しているのですが、自分の技術や表現力が上達するにつれて、ギター選びの妥協点の水準がどんどん上がってしまい、なかなか買い時が難しい現状です。エレキ・ギターとは違い、フラメンコ・ギターはそう何本も買えるほど手軽な楽器でないため、より慎重になって購入を検討しています。まあ来年辺りにそろそろ決めたいとは思っていますが、はたしてどうなるかな。
現在候補に挙がっているのは以下のギターたち。実際に弾いたり、音を聴いたりして印象に残ったものです(グレードが高い順に表記)。
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Domingo Esteso:気に入った音が見つからない中、コンデの前身ドミンゴ・エステソの30年代オールドを弾いたときに、初めて「これだ!」という電撃が走った。高価過ぎて買えないだろうけど、こんなギターを弾いて毎日過ごせたら人生も楽しいだろうなぁ・・・。
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Conde Hermanos:王道ですね。廉価なEF4やEF5には食指が動かないけど(他社のOEMという噂有り)、このクラスの音でも自分的には納得。フェリーぺ工房のAF25が好みだけど、この5年で2,000ユーロ近くも値上がりして凄いインフレ率。コンデはちょっと前にeBayで偽物が出回っていて一時期問題になりましたね。
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Lester DeVoe:サビーカスやパコ・デ・ルシア、ビセンテ・アミーゴで有名な米国のレスター・デヴォー。キレのよいラスゲアードの音や、弾むような単音の音はかなりぼくのストライクゾーン。サントス・エルナンデスをモダンに解釈したソロ向けギター。オーダーは3年待ち。トレースした左手を元にして制作するといったプレイヤーに対する配慮も嬉しい。
【12/29追記】ホームページから問い合わせをしたところ、現在も2年半〜3年のオーダー待ち、価格は2007から08年で3%の値上げ、今オーダーしたものについては10〜15%の値上げを見込んでいるとのことでした。メールも綺麗な英文で印象はすこぶる良い感じでした。●
Ricardo Sanchis Lopez:バレンシアの職人リカルド・サンチス(Carpio)の息子兄弟のメーカー。「Hermanos Sanchis Lopez」とも表記される。ロゼッタのデザインがお洒落だし、ボディカラーも3種から選べてオーダー向きのギター。またセビージャの楽器店
Jose luis Postigo がOEMで彼らのギターを自ブランドとして販売している。
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Amalio Burguet:同じくバレンシアのギター・メーカーであるアマリオ・ブルゲはクラシック・ギターの方が有名かもしれない。可もなく不可もなく正統派という感じがする。オランダの代理店
Casa Benelly で通販可能。米国の
olddavy.com では良心的な値段(海外発送は要確認)。
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Miguel Santos:上記のアマリオ・ブルゲの日本向け仕様のギター。ブルゲがセラック塗装なのに対し、サントスはウレタン塗装。廉価なモデルの中では評判の良いギター。このギターのためにブルゲは日本に輸入させてもらえないとの専門店情報もあり。
部屋で弾いて楽しむのがとりあえずの用途なので、音量よりも立ち上がりのキレの良さと、ラスゲアードのシャープ感、音色、弾きやすさ、デザインがトータルにバランス良く調和しているものが希望なのですが、いざ楽器屋で同時にたくさんのギターを弾き比べてみると、一長一短で自分が何を求めているのか分からなくなってしまうのが正直なところ。しかもエレキギターに慣れた身には、軽量な木工品のギターと高額な値段とがどうしても結びつかないのも、購入に踏み切れない理由の一つです。
ちょっと前までは Hermanos Sanchis Lopez の最上級モデル「F.Extra Palosanto」が欲しくて、アメリカの
La Falseta で購入すべく、メールで何度かやりとりしていたのですが、とにかくメールの返事が遅いので不安になったことと、バレンシアからの直送の費用がDHLで7万円弱(おそらく総額で8万)かかることから、スペインで直接買って機内持ち込みで自力運搬しない限りは、このクラスのギターをわざわざ海外通販で買うメリットもないだろうと思いました。日本であまり流通していないマニアックな価値はあるかもしれませんが、想像だけで音を確信できない高額なギターを買うのは大きなギャンブルでもあるし(このメーカーのでは下位モデルの音を知っているのみ)。
で、今はレスター・デヴォーに気持ちが傾むきつつありますが、年間12本の生産キャパシティのためオーダーは現在3年待ち。日本でべらぼうに高い中古を買うか、アメリカで安い中古を探すことも視野に入れているけど、じっくり3年待つ価値があるギターだけに悩むところ(このギターなら待ってもいいかな・・・)。
悲しいことに、最近のスペインでも多くのメーカーが中国製造ギターを安値で仕入れ、それにラベルを貼って自社製品として販売しているようです(廉価モデルだけだと思う)。メーカーは特定出来ないのですが、日本にも入って来ているのかもしれません。スペインもだんだんと拝金主義に変わりつつあるので、高い金を出さないと良い工芸品が買えない時代になってきました。スペイン製ギターでさえも購入はある意味ギャンブルとなってきました。韓国産エレキギターと同じ道を彼らも歩んでしまうのだろうか。ギター職人のプライドよ何処へ行く・・・。
地方の楽器屋巡りだけでは限界があるし、国内の職人のギターにも興味があるので、いつかふらりと東京に出向いて専門店を数軒ハシゴしてみようかなとも思っています。今よりもっと上達して自信がついたら、さらにワンランク上のギターを買うことにも躊躇することはなくなるだろうし。それまではひたすら練習あるのみ。
ハカランダ(ブラジリアン・ローズウッド)はワシントン条約で伐採や取引きが禁止となっていて、ハカランダ素材のギターはこれからはさらに値が上がるだろうし、最近一部のフラメンコ・ギターでも使われ始めているパーフェロー(ボリビアン・ローズウッド。厳密に言えばローズウッドではない)も、昨今の異常気象による南米の干ばつでこれから供給が難しくなってくることも予想され、環境破壊とギターの品質も無関係とは言えない面もあります。定番のドイツ松やインディアン・ローズウッドなど、他の木材の調達も必ずしも先行き明るいものとは言い切れず、これからよいギターに巡り会う機会もどんどん減ってくるのではという危惧もあります。
(画像:ロゼッタの寄せ木作りのデザインもギター選びには重要なポイントです。個人的に気になるロゼッタデザインをいくつか紹介。手の込んだロゼッタは比例して値段も高いのはいた仕方ないですねぇ。ボディ色についてはナチュラルやオレンジよりもレッドが好みなのだけど、日本ではあまり見かけない気もするので妥協出来ないならオーダーするしかないのかも・・・)
2007/12/20
フラメンコ
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