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Roma_BlackMaria

(画像:サント・マリー教会の地下祭室に祀られている黒いサラの像。トニー・ガトリフ監督作品「ラッチョ・ドローム」より)



 南仏カマルグ地方の地中海に面した街、サント・マリー・ド・ラ・メールはロマの巡礼地としてその名を知られている。毎年五月下旬に開催されるサント・マリー祭で、サント・マリー教会の地下祭室に祀られている黒いサラの像を礼拝するために、彼らが大勢この土地に集まってくるのだ(※1)。蝋燭の光で浮かび上がったサラを抱きしめ、何度もキスを繰り返す。ロマの熱心な信仰のおかげで、サラの頬はケロイド状にただれてしまっている。トニー・ガトリフの映画「ラッチョ・ドローム」においても、黒いサラの像の御前で敬虔にギターをつま弾くフランスのロマ(ジタン)のシーンや、白い馬に乗ったカマルグ・ガルディアンの勇姿、司祭に囲まれてサラの像を担ぐロマなど、活気に溢れたフェスティバルのシーンは印象深かった。

 黒いサラは、キリストの処刑に立ち会った三人のマリア(マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、マリア・サロメ)の一人、マグダラのマリアの召使いであり、ユダヤ人に迫害され、パレスチナから櫓(ろ)も帆もない小舟に乗せられ、地中海を漂泊して奇跡的にこの地に流れ着いた。小ヤコブとヨセの母マリアとマリア・サロメ、そして彼女たちに従う黒いサラはこの地に残り、布教をした後に没したという古い伝承がある(※2)。この二人の聖女マリアたちの墓跡にサント・マリー教会が建てられ、九世紀にはイスラム勢力の侵略から備えるためにロマネスク様式の単純な要塞に改築され、一一三〇年には堅牢な要塞教会となって現在に至っている。
 十五世紀以降、サント・マリー教会はキリスト教徒の巡礼で賑わうようになったが、当時はロマの巡礼は許されていなかった。一八六二年に二人の聖マリアの像を創った時の御披露目式に数人のロマが参加したのを初めとして、一九一一年になって、ようやく九百人のロマによるサント・マリー教会への巡礼が許された。黒いサラが聖女として認められたのはごく最近のことであり、それは教会自らの慈悲によるものではなく、ガルディアンの英雄フォルコ・ド・バロンセリ侯爵が頑固な教会を説得し続け、一九三五年五月二四日のサント・マリー祭で初めて「黒いサラ」の像の行列を実現させたのである。しかし守護神サラに対するロマの熱い想いとは裏腹に、教会の対応は相変わらず冷ややかで、サラの像は二人の聖女マリーの像とは差別され、今でも教会の地下祭室に放置されているのである(※3)。

 そもそもガリア地方(現在のフランスとその周辺地域の古い名称)に点在する黒マリア像は、キリスト教との関連性は薄く、土着的な母神信仰をその起源とする。ロマにとってのキリスト教やイスラム教は、その土地で生活するための処世術に過ぎず、実際は偶像崇拝をその信仰としていた(※4)。
 そして、黒マリアについての最初の本格的研究「フランスの黒マリア その起源について」を発表したエミール・サイヤンが想像するように、黒いサラはインド神話のカーリー神でもあるという仮説は、ロマの源流をインドとする点から見ても興味深い。そもそもカーリー神は殺戮と破壊の象徴であり、南インドを中心とする土着の神の性質を習合したものとされる。仏教においてのカーリー神は大黒天(シバ神)の妃、大黒天女と呼ばれており、また日蓮上人の「観心本尊抄」では鬼子母神とされており、黒マリアの母神信仰との類似点をここにも見出せる。

 音楽や舞踊という芸能表現は、体内から湧き上がるエネルギーで破壊と創造を繰り返すことでもある。ストイックに練習を重ね、自分自身との対話に真摯に向き合っているような高レベルの表現者であればあるほど、人生や表現に対しての苦悩も比例して増す。彼らが心の拠り所として、クリエイティブな気持ちを保持できるような強い神を求めるのは必須である。そんなことからもインドの低カーストの楽士や舞踏家、芸能者がより土着的なカーリー神を信仰することは理に適っているし、西方に渡ったロマも、芸能を表現している時にはカーリー神のような地母神を無意識下で想起しているのかもしれない。実際にバルカン諸国や中央ヨーロッパのロマの間でも、カーリー神がポピュラーな存在であると聞く。このようなことから芸能表現においても、カーリー神と黒いサラは、ロマの変遷の重要な起点と終点になるのではないだろうか。

ここでインド・ラジャスタン地方の芸能者や楽士の信仰を挙げてみたい。

・ランガ:イスラム信仰
・マンガニヤール:イスラム信仰
・ジョーギー:ドゥルガー信仰
・カルベリア:ヒンドゥー信仰
・ボーパ:ヒンドゥー信仰

Roma_Kali パトロンたちを相手に演奏するランガのイスラム信仰は、彼らが西暦五~六世紀にアラブやアフガンから渡来したためと思われる。マンガニヤールとイスラム教の関わりについては不明だが、ランガと同根で後に枝分かれした可能性もあるし、カーストの縛りから逃れ、パトロンを得やすくするためにヒンドゥー教からイスラム教に改宗した可能性もある(※5)。漂泊民のジョーギーがドゥルガー信仰(※6)なのは肯けるし、カルベリアも公式にはヒンドゥー信仰とは言え、根本には蛇に関連したトーテミズム的性格を持っており、さらには地母神的なカーリー神を讃える気持ちを舞踏表現のときに抱いているのかもしれない。カルベリアの地を震わすような激しい踊りは、シバ神が体を張って止めたくなるに相応しいようにも思える(※7)。(【2008.4.20追記】ジョードプルのカルベリアのコミュニティを訪問した際に、信仰について彼らに尋ねたところ、ヒンズーの神の中ではシバ神が最重要であるとのこと。カーリー神は特に重要ではないという。ここに訂正いたします。)ちなみにヒンドゥー教にはナーガ(女性形はナーギニー)という蛇神がいるのだが、個人的にはどうもカルベリアとは結びつかない。さらにヒンドゥー教でポピュラーなサラスヴァティは芸術の女神とされているが、その洗練された優雅さは土着的な芸能表現とはどうも結びつかない。
 カーリー神はベンガル地方で篤く信仰されているが、ラジャスタン地方でも信者が多いと聞く。両地方の共通点を探ってみると、どちらも土地に根付いた民族芸能が盛んであることに気付かされる。このことからもカーリー信仰と芸能表現には密接な関係があるように思えるのだ。

 以上のことを踏まえて、信仰的側面からみたロマの変遷において、カーリー(またはドゥルガー)信仰は注目するに値する。インドにおいて最大の漂泊民族であるバンジャラ族は、公式にはヒンドゥー信仰だがその根本は偶像崇拝である。さらにデカン高原に点在するバンジャラ族の村々(ショラプル近くのバロジー・ナガール・タンダ村、オスマナバード近くのシバジー・ナガール・タンダ村など。タンダはバンジャラ族の幌馬車のことを指す。【2009.4.5追記】アンドラ・プラデシュ州のハイデラバード周辺、カルタナカ州のビジャプール周辺、マハラシュトラ州のショラプルやジャルガオン周辺。彼らは村から離れた場所で「タンダ」と呼ばれる集落を作って生活している)では、祈祷師がトランス状態に陥りながら黒い山羊を生け贄にするといった、シャーマニズム(※8)を基調とした原始的なドゥルガー信仰が残っている。祈祷師の書いた卍(まんじ)の中央に生け贄の山羊の頭と心臓を供え、四肢を切り取り四本の線に沿って置き、歌を歌い先祖を慰める(※9)。さらにデカン高原の奥地に入れば、ドゥルガー信仰が独自のシャーマニズムと融合し、たとえば人間を生け贄とするような過激な村も存在するのかもしれない。

 このように原始的な地母神信仰における、陶酔した宗教的恍惚状態に導く音楽は、舞踊や呪術的儀式と深く結びついており、インド全土で見られる。
 西ヒマラヤ、とくにクマオンやガルワールでは、アーリア人侵入以前の祭礼と関係のあるジャーガルと呼ばれる呪術的な儀式がある。ジャーガルは悪霊ブータの信仰と結びついており、ブータは人間や動物を占有し、またそれらを悪党や野獣の姿にして攻撃する力をそなえている。ジャーガルは悪魔払いの儀式であり、夜に限って催される。歌い手はドム(私説ロマ過去記事「ロマの流鏑の歴史」でも少し触れた不可触民)のカーストに属している。この儀式でもドールキやダムなどの太鼓のビートに合わせて、祈祷師がだんだんとトランス状態に陥り、一種の霊媒のような役割を果たす。
 同じように恍惚状態を引き起こす呪術的な舞踊は、インド東南部のポンデシェリー地方の漁村や、東北部のオーストロ・アジア系の先住民族であるサンタル族(※10)、スリランカの山岳ヴェッダ族(※11)などにも見られる。

 地母神的側面を持ったカーリーやドゥルガー信仰の彼らと同じような精神性を、古いガリア地方にも見出すことが出来る。ローマ文明の強い影響を受ける以前のケルト人は神殿を造るということはしなかった。彼らが崇拝していたのは神殿でも神像でもなく、彼らが神聖視していた特定の場所であった。神聖な場所とは、人間の目に見えない世界、神々の世界と接触することのできる場所でもあった。ドルイド(ケルト人社会の祭司)たちは中央に孤立した樫の木が聳えているような場所を特に重視し、祭儀の際には牡牛を生け贄として供え、時には両足を切断した人間をも樫の木に吊して供えたのである。黒マリアの像が、このような森の奥の樫の木近くで発見されたという伝承もいくつかある。
 またドルイドは、太陽や天体の軌道上の運行や四季のサイクル(循環)から円環の動きを見出し、それが輪廻転生思想へと発展していった。輪廻転生思想は当時のヨーロッパ文明には存在せず、ケルト独自の思想として際立っている。

 ヨーロッパのロマが、土地の教会や権力に保護された宗教を生きていくための方便として利用しつつも、実際はこのような土着的な母神信仰や黒いサラを、放浪生活における心の拠り所としていたと考えるほうがしっくりくる(※12)。


(次回予定:最終回『ヒジュラとロマ』/毎週木曜更新)
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※1. だがサント・マリー教会を巡礼するロマは年々減少しているようである。移動手段が幌馬車から自動車に代わり、ガソリン代がかかるようになったこと、雇われ仕事をする者も多くなり、休暇が思うように取れなくなってきたことなどが影響しているようだ。

※2. サント・マリー・ド・ラ・メール(海からのマリーたち)という土地の名称は、彼女たち二人のマリアの名前に因んで一八三九年に名付けられた。そして三人のマリアの残りの一人、マグダラのマリアはサン・ボーム山塊に赴いたという伝説が残されている。さらに小舟に同乗していたマルタはタラスコンへ、ラザロはマルセイユへ、マクシミヌスとケドニウスはエクス・アン・プロヴァンスへと赴いて、キリスト教の布教に努めたとされる。

※3. 南フランスの『陽光溢れる朗らかなプロヴァンス地方』というメルヘン調のイメージは、外国人観光客向けの謳い文句に過ぎず、実際は保守的で封建的な社会が根強く残っており、魔術、神秘、呪いが滲み付いたおどろおどろしい側面を持っている。
 十六世紀から十七世紀に最盛期を迎えた魔女裁判においては、物乞い、占い、魔術を扱うとされたロマも目をつけられ、プロヴァンス地方でも多数火あぶりの刑に処された。また大戦中のホロコーストにおいては、ユダヤ人だけでなく五十万人にのぼるロマも犠牲になったが、その背景ではフランス警察がドイツのナチ親衛隊に率先して、ドイツ占領下の北フランスのみならず、当時は半自由地区であった南フランスでもユダヤ人狩りやロマ狩りをして、二十世紀の魔女狩りが再開されたのであった。

※4. F.W.ニーチェは『アンチクリスト』で「自信を持っている民族は自分たちの神を持っている」と述べている。彼らが神を祀るのは自分たちの誇りのためであり、誇りを持っている民族は犠牲を捧げるために神を必要とする。そして感謝する相手は結局は自分自身なのである。こういった神は単純ではなく、味方であるだけでなく時として敵ともなる。悪いことにおいても善いことにおいても、神は必要とされるのである。それが本当の神の姿なのではないのだろうか。
 ニーチェの思想から見れば、ロマは「誇り高く自信を持っている」民族だと言えないだろうか。放浪先でたえず蔑視や嫌悪の標的にされつつも、それに屈せず民族が滅びずに生き長らえることは、並大抵の精神力ではない。彼らの心には善悪の価値観をも凌駕した「自分たちの神」が存在していたことは疑いようがない。もし彼らがルサンチマン的性格をもつキリスト教を本気で信仰し、原罪意識に悩まされながら放浪生活を続けていたならば、精神崩壊、さらには民族崩壊は免れなかったかもしれない。
 ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、それはイエス・キリストを批判したわけではなく、イエスの教えをパウロや教会が自分たちの権力獲得のために都合のいいように利用し、キリスト教やイスラエル、さらには人類の歴史までをでっちあげてしまったことを嘆いたのである。後にイスラム教を始めたムハンマドは「不死の信仰」をキリスト教から拝借して利用したが、これにもパウロと同質の腐敗臭が漂っている。
 イエスは「人間の救済」のために死んだのではなく、「人間はいかに生きるべきか」を教えるために死んだのである。イエスは仏教の教えと同じく「実行」を説いたのであるが、それがパウロにより「約束」の宗教として全く正反対の教えを持つキリスト教にでっちあげられてしまった。
 私はイエスの人生とロマの人生に共通点を見出している。両者とも自分自身と向き合いながら生きていた。第三者からは誤解され軽蔑の対象にもなったが、自身の揺るぎない強い信念のもと放浪人生を生き抜いた。ロマはキリスト教以前の本来のイエスの生き方、すなわち神と人間との一体化を実践しているように思える。極論すれば、ロマこそがイエスに最も近しい人なのかもしれない。さらにロマ Roma はその名の通り、キリスト教以前の健全な精神を持ったローマ帝国時代を無意識下で理想郷とし、そんな世界を探し求めて放浪を続けていたのかもしれない。ロマの定住化が進んできた現在となっては、そのような妄想も的外れなロマンチシズムに過ぎないのかもしれないが。

※5. ラジャスタン地方では「カーン」という名をよく耳にする。北インドではアフガン系の移民に、モンゴル族の最高の称号を示す「ハーン」が用いられていた。マンガニヤールなどのヒンドゥー教の下級カーストの楽士がこぞってイスラム教に改宗した際に「カーン」を名乗ったが、必ずしも彼らがアフガン系とは限らない。

※6. デカン高原の北部、ヴィンディヤ山脈地方の土着神。ドゥルガーはアスラの戦いの際、分身として額からカーリーを産んだ。カーリーやドゥルガー信仰はベンガル地方で盛んだが、私が訪問したラジャスタン地方ではより原始的な信仰として残っている印象を受けた。ラジャスタン地方の人々はドゥルガーのことをマータ Mata と呼んでいる。

※7. 一説には、アスラの戦いで勝ったカーリーは歓喜して勝利の舞を始めたが、あまりの激しさに大地が裂けそうになり、シヴァが衝撃を弱めるために下敷きになったとされる。

※8. シャーマニズムは、トランスのような異常心理状態で超自然的存在(神・精霊・死霊など)と交流し、予言、占い、治療行為などの役割を担う呪術師(シャーマン)を中心する呪術・宗教的形態のことである。
 シャーマンの語源はシベリア地域、ツングース民族の「サマン」とされ、ツングース語で「精神的に高揚し、感動し、高められた者」という意味を持つ。さらに語源を遡ると、古代インドのパーリ語の「シャマーナ」、あるいはサンスクリット語の「スラマーナ」に辿り着くという説もある。
 シャーマニズムは世界中で数多く見受けられるが、特にアジアはその宝庫である。韓国は最近またその熱が復活しているし、中国の少数民族や東南アジアにも多く見られる。さらにチベットやインドのラダック地方には非常に古いシャーマニズムが残っている。ヨーロッパではキリスト教圏にも関わらず、本記事でも触れている古代ケルトのドゥルイドなどのシャーマニズムが文化の深層において生き残っている。その他ナイジェリアのヨルバ民族、ハイチのブードゥー、キューバのサンテリーア、ボブ・マーリーで有名なジャマイカのラスタファリアなど挙げればきりがなく、その内容も多種多様で、シャーマニズムを細かく定義化することは難しい。
 日本にもシャーマニズムは見られ、青森県の恐山のイタコ、沖縄のユタやノロをはじめとし、沖縄久高島のイザイホウ、高知県物部村のいざなぎ流などが挙げられる。日本古来の信仰体系「神道」も起源はシャーマニズムであり、邪馬台国の卑弥呼や初期の天皇もシャーマンであった。シャーマニズムは現代日本にも存在しており、戦後の新興宗教やカルト教団に受け継がれている。
 シャーマニズムは単なる原始的な宗教的形態というよりも、高度な情報化社会において歯車の一部となったわれわれ現代人に「生の全体性」を自覚させる人間としての根源的なテーマを含んでいるように思う。それは細分化された知識ではなく、知識以前の未分化の叡智であり、禅の「中心のない無限大円環の中心」、インド哲学の「ブラフマン」にも通じるものではないだろうか。

※9. 神話によるとドゥルガー神は、デカン高原の北部ヴィンディヤ山脈地方の土着神であり。「マハーバーラタ」ではヴィンディヤ山に住む処女神で、悪魔(水牛マヒシャー)を殺し、酒、肉、動物などの生けにえを好むとされた。

※10. サンタル族の叩くドラミングはきわめて複雑である。民族音楽が古典音楽よりも単純であるとは一概に言えない。

※11. 山岳ヴェッダ族は楽器をもっておらず、手拍子あるいは身体を叩くことで、歌や舞踊の伴奏とした。歌の音域は高い音と低い音の二種類しかもたないが、合唱する時には各々が別々の歌を同時に歌うので、少人数でも大人数で歌っているように聞こえる。

※12. だがロマにとって重要なのは「今」であり、古代ケルト人の持つ輪廻思想は彼らに受け継がれてはいないようである。ロマの宗教観の個人的な見解は本文に述べた通りであるが、さらに補足※4でニーチェの思想に照らし合わせてみると、彼らが人間として根源的なものと向き合って生きていることを感じずにはいられない。
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roma tribe

(画像【左】バンジャラ族の女性 /【右】ガドゥリヤ・ロハール族。「世界のジプシー/N・B・トマシェヴィッチ(恒文社)」から引用)



 二四〇近くあるインドの部族(※1)の中で、ロマとの繋がりを強く感じさせられるのがバンジャラ族 Banjara である。バンジャラ族はアフガニスタンの険しい山を通って、二三〇〇年前にラジャスタンの砂漠地帯に移動してきた部族といわれている(指定部族としてはオリッサ州に含まれる)。
 十四世紀になると、ムガール人の有力者は北インドからバンジャラ族を集めて南下を始めた。デカン高原を占領するにあたって自軍のための武器や食糧を彼らに運搬させたことから、バンジャラ族はデカン高原に定住化することになった。
 今日バンジャラ族の漂泊する生活様式は変化しつつあり、建築現場で道路工事や煉瓦運びに従事したり、家畜を捨て、農業に不適な荒れ地の村落に住み着いて、砂糖キビの精製などの季節労働に従事して生計を立てている。彼らの伝統的な慣習や風習や儀式は少しずつ変化しているにも関わらず、放浪本能は依然残っている。彼らは仕事を手に入れるために一時的な集落を作り、泥や竹を材料とした簡素な家を建て、臨機応変にどこでも移動する。自分の所有物をほとんど持たず、土器、小さなキルト、竹製のマットや木製の品物を製作する。また数は少ないながらも、真鍮や銅の容器も作っているようだ。若い世代は都市部で定職につきたがる傾向があり、ハイデラバードでリクシャードライバーなどの定職に就く者もいる。彼らは公式にはヒンドゥー信仰であるが、根本には偶像崇拝である。
 バンジャラ族の女性のファッションは他の部族よりもより一層際立っている。インデアン・パイサを縁に沿わせたスカーフ。髪飾りにはラクシュミー神の身代わりとされる子安貝。アルミニウムや銀で作った長いイヤリングや足首につけたアンクレット。金属製のブレスレットは既婚の印であり、一年ごとに一個ずつ加えて行く。ブレスレットの数で婚姻暦が分かるのだ。そして魔除け(さらに動物避け)の意味を込めた数多くのミラーワーク。刺繍を施すのは、灼熱の太陽での移動で布がすぐに傷んでしまわないように耐久性を増すという漂泊民の知恵なのである。その刺繍の模様の違いが各部族のアイデンティティともなっている。

 ガドゥリヤ・ロハール族 Gadoliya Lohar は、ラクダや牛を使って荷馬車で放浪する部族である。鍛冶屋を生業とし、かつてはマハラジャやその軍隊用に武器作りをしていた時代もあったが、今では金属製の壺と皿を売ってわずかな収入を得ている。ガドゥリヤは「荷馬車」、ロハールは「鉄」ないし「銅」の意味である。ロハール族の女性は、移動しない6月から9月の定住期間を利用して、市で買った(もしくは綿畑から失敬した)綿を糸車で紡ぎ、自分たちの長いスカートや家族の着るものを作る。彼女たちを特徴づける衣類の鮮やかな染色は、植物や草木から採集されたものである。
 現在ルーマニアでごくわずかに見られる幌馬車生活の放浪ロマ(今では彼らの大半がキャンピングカーを使用)とガドゥリヤ・ロハール族の生活は酷似しており、さらにルーマニアのロマが作る壺や皿などの金属製品が、ガドゥリヤ・ロハール族の作るそれと全く同じ物であったという報告例もある。ロマのルーツが、ラジャスタン地方であることが想像に難くない(※2)。トニー・ガトリフの映画「ラッチョ・ドローム」でもラジャスタン地方から荷馬車を用いて西へ移動するロマや、刃物を鋳造するシーンなど、ガドゥリヤ・ロハール族を思い出させるシーンをいくつも見ることができる。


【2010.9.7追記】ガドゥリヤ・ロハール族については、本ブログ内記事『ザ・ラジャスタン』音楽紀行 #005:テント集落のロハール族 でも触れているので、ご参考頂きたい。
 彼らが放浪生活を始めたのは、どうやら十六世紀半ば以降のようであり、ロマ民族が流鏑の旅を始めたとされている十世紀から十一世紀前半に西方へ向かったのは、あるいは別のグループであったのかもしれない。


(次回予定『黒いマリアとカーリー神』/毎週木曜更新)
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※1. 以下にラジャスタン地方周辺の重要な部族をいくつか列記しておく。
・ビール族:ドラヴィディアン族を起源とするラジャスタンの先住民族。言語学的側面からロマとの深い関係性も指摘されている。
・ブラフマン族:ドラヴィディアン族を起源とし、ヒンドゥーの祭祀を司る祭司としての職を努めた先住民族。
・ラージプート族:マハラジャ直属の武士階級として戦った誇り高い民族。
・メグワール族:ハリジャンの名をガンジーから与えられたラジャスタンの先住民族。
・ジェッツ族:イランから移住してカッチに住むムスリムの民。
・ラヴァリ族:マハラジャに使え、高度な刺繍の芸術性を持つラジャスタンやグジャラートの民
・アヒール族:クリシュナ王の子孫

※2. ジャイサルメール在住のインド人によると、現在のガドゥリヤ・ロハール族はジャイプールやウダイプールで暮らし、今でもキャラバン(その形態は不明)で移動する生活を続けているようである。ジャイサルメールにも二~三日間滞在することがあるそうだ。

roma fortview

(画像:ジャイサルメールの砦から眺める日の出直後の風景。太古からランガやマンガニヤールなど砂漠の楽士たちも、寺院やパトロンの元に通う途中に、この風景に慣れ親しんだのかもしれない。リクシャーが爆音をなびかせて走り回る昨今に比べ、遙か太古は閑静でさぞかし優雅な時間が流れていたことだろう。はたして砂漠の楽士たちは輪廻思想の下、自らを芸術的に高めることを心の拠り所として暮らしていたのだろうか)



『われわれインド人にとって、ヒンドゥーの音楽は、人間の魂と事物の背後にある魂との関係を歌う。ヨーロッパの音楽は、協和音と不協和音による奥深いハーモニーと、互いに分離した断片の結合によって、昼の世界を表現する。だがわれわれの音楽は、ひとつの、純粋な、深い、そしてもの柔らかなラーガによって、夜の世界を奏でる。このふたつの音楽は、どちらもわれわれを感動させるが、しかしおのおのの本性は、昼と夜、単一と変化、定まったものと不定なものというふうに、永遠にちがったものである』(ベンガルの詩聖タゴールのことば)


 インドの音楽には楽譜から音楽を再生する習慣はない。楽譜によっての再現は不可能であり、複雑なラーガ(旋律の法則)、ターラ(リズムの法則)はあくまで口頭伝承によって受け継がれてきた様式なのである。
 ラーガには時間、季節、表現される感情等も含まれ(※1)、演奏者が状況によって相応しいラーガを瞬時に選択する。西洋音楽理論にラーガを置き換えることは不可能であり(※2)、理論上3万7000種類とも6万5000種類とも言われる中のごく一握りのラーガを覚えるだけでも大変なことである(※3)。実際には300種類くらいが知られているに過ぎず、そのうち一般的なものはせいぜい100種類程度である。おそらくひとりの音楽家がそれなりの自信を持って演奏できるのは50種類くらい、完全にマスターしているものとなれば25種類くらい、さらに演奏の場において臨機応変に対応できるのはその中の5種類くらいなのである。ジョージ・ハリスンが志し半ばにして、シタールの学習を諦めてしまった気持ちも察することができよう。外国人にとって一見同じ味のように思えてしまうインド料理が、実際は各種のスパイスの調合具合で微妙に味が変わるといった繊細な側面は、まさに豊富な種類を持つラーガの多様性を表しているかのようだ。

 インドの音楽には西洋音楽で使う対位法や和音の概念はなく、ガマカ(装飾音)や微分音で音を彩る。それは無限の音色の変化、装飾音、ポルタメント、トレモロ、音の上げ下げを特徴として、インドの音楽の旋律線を柔らかなものにしている。対位法や和音を使う方が洗練された音楽ではないかと思われるかもしれないが、小泉文夫氏の見解によれば、千年とか万年という大きな人類の歴史からみれば、ハーモニーや対位法のある音楽は比較的プリミティヴな共同体的社会の中にあって、成熟した社会(原文は「発達した社会、高級な社会」)の中ではユニゾンが発達しているとされている(※4)。
 インド音楽の即興性はジャズに通じるものがあるが、ジャズは身体的・直接的なものであるのに対し、インド音楽はより哲学的および数学的な美しさを持つ。数学的な美しさはリズム奏者においてのターラで顕著に表現され、複雑なリズムをまるでコンピュターで計算したかのように叩き上げ、綺麗にサム(拍子の一拍目)に戻ったときには観客も演奏者もカタルシスを感じる。ターラは単に拍子をとること以上の役割を果たし、それは輪廻思想にも繋がる。使用ラーガの意味やターラの周期など、インド音楽理論を知れば知るほど、観客は演奏者の意図をダイレクトに汲み取り、音楽と一体化することができるのだ(ターラついての理論的な解説は、長くなるので今回は割愛します)。

 インド音楽と西洋音楽の融合を目指した音楽家も多く、ジャズ界においてはジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィスを筆頭として、ファラオ・サンダース、ジョン・マクラフリン、エリック・ドルフィー等数多く存在し、音楽と精神世界との架け橋を作った。
 またロック界においては、バーズ「霧の8マイル」、ローリング・ストーンズ「黒くぬれ」、ジェファーソン・エアプレイン「ホワイト・ラビット」、ドアーズ「ジ・エンド」などのラーガ・ロックというスタイルが60年代中盤に確立されたが、これは楽器を似せたりフレーズがなんとなくそれっぽかったりと直感的・表層的な表現に過ぎず、インド音楽を深く掘り下げたものではなかった。ロック界におけるインド音楽との融合は、ジョージ・ハリスンのアプローチがよりクリエイティヴで誠実なものではないかと個人的には思う(※5)。

 インドでは、民謡と芸術音楽や古典音楽の境界は実に曖昧である。あえて境界を設けるのであれば、意識的な文法が存在するか否か、つまり音楽理論に沿った確固とした構造を持っているか否かで判断できる。だがベンガルのキールタン、マハーラーシュトラのアバンガ、アーンドラのパダムなどの劇場音楽は、洗練された形式として常に挙げられるものの、厳密な意味では古典とは見なされない。これらのように適切な言葉を当てはめられないものに関しては、「伝統音楽」というカテゴリーを加える必要がありそうだ。
 さて、ラジャスタン地方の重要な音楽集団であるマンガニヤールやランガの演奏においても、ただ伝承されている民謡を歌うだけでなく、インド音楽理論を踏襲しているものも多く見受けられる。洗練された即興性を持つ彼らの音楽も、民謡というカテゴリーに押し込めずに伝統音楽と呼んで差し支えないのではないだろうか。実際にラージプート地方の民謡を起源とする「マーンド」mand という名のラーガも存在する(※6)。彼らの即興性においては、よりクールで形而上学的性格を持つ南インドのカルナータカ音楽よりも、感情表現が豊かな北インドのヒンドゥスターニ音楽の影響を垣間見ることが出来る。
 古典的なものと民族的なものが、砂漠という厳しい居住空間の中で融合し、それが肉体表現を伴った表現にまで昇華されたのが、ラジャスタン地方の民族芸能なのである。パトロンたちに仕えていた太古から、観光客相手に演奏する現代に至るまで、彼らはその表現を柔軟に時代に対応させて今日まで生き残ってきた。その臨機応変な柔軟性は、放浪先の土地の民衆に受け入れられるために、自らの音楽性を変幻自在に合わせてきたロマの生き方にも通じるものがあるのではないか。

 今日でもジプシー音楽が楽譜によってではなく、口頭伝承や世代継承によって受け継がれている理由が、このインド音楽による影響もあろうかと思う。即興性があるからこそ、マンネリズムに陥ることなしに一度だけの演奏に生命を爆発させる。過去でも未来でもなく「今」を生きることに重きを置くロマにとって、即興性は人生そのものの表現なのだ。


● 参考・引用文献1:世界の民族音楽辞典/若林忠宏(東京堂出版)
● 参考・引用文献2:インド音楽序説/B.C. デーヴァ(東方出版)


(次回予定『インドの放浪部族』/毎週木曜更新)
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※1. 例えばアヒール・バイラヴは「早朝」、ジャイトシュリーは「夕暮れ」、チャンドラカウンスは「深夜」、ジャヤント・サーラングは「雨期」のラーガである。
 近年、一般大衆向け演奏会の時間設定の制約、ラジオやテレビ放送などの制約、都市化による生活様式の変化などから、季節や時間によるラーガの束縛はだんだん緩くなってきている。また南インドのカルナータカ音楽においては、二、三の例外を除いて、ラーガの時間制約は全くない。
 ラーガの時間帯を一般的に決定する方法の一つとして、ラーガ内にシュッダ音(自然音)、コーマル音(変音)、ティーヴラ音(嬰音)が含まれるかどうかで判断するバートカンデーの研究法がある(他にも主要音の位置で判断する方法もある)。たとえば、「Db, E, Ab, B」を含む音階は、昼と夜が変わる薄明、たそがれの時間帯のラーガである。また「D, E, A, B」を持つ音階は、たそがれの後にやってくる朝、または夜の2番目の時間帯(夜の9時から深夜零時。後述)である。そして、朝あるいは夜の3番目と4番目(昼の12時から夕方の6時、あるいは深夜零時から早朝6時)の時間帯では「Eb, Bb」を含むラーガが演奏される(いずれも便宜上 KEY=C にて表記)。
 インドには一般に一日を8つの時間帯に分ける習慣があり、夜明けから順に3時間ごとに区切った1単位をパハル Pahr という。ヒンディー語の「アートン・パハル」は、8つのパハル、つまり24時間であるから、「一日中」という意味になる。ただし夜明けや日没の時間は季節によって一定ではないので、パハルの数え方も絶対的ではない。

※2. 西洋音階の「C D E F G A B C」相当するものは、インド音楽では「サリガマパダニサ」と表記される(Sa=シャドジャ、Ri=リシャバ、Ga=ガーンダーラ、Ma=マディヤマ、Pa=パンチャマ、Dha=ダイヴァタ、Ni=ニシャーダ)。しかしインド音楽には A=440Hz という絶対音の概念はないので「C=サ」とはならず、歌い手の音域において基調となる音が「サ」と定められる。
 基本的な面では西洋音楽理論に置き換えることも出来なくはなく、たとえばヒンドゥスターニー音楽における10の主要なタート(パターン)のうち7つは、西洋音楽のチャーチ・モードやコンポジット・モードに置き換えることは可能である(以下、便宜上 KEY=C にて表記)。

・ビラーヴァル・タート = Ionian(C, D, E, F, G, A, B, C)
・カマージ・タート = Mixolydian(C, D, E, F, G, A, Bb, C)
・カーフィー・タート = Dorian(C, D, Eb, F, G, A, Bb, C)
・アサーワリー・タート = Aeolian(C, D, Eb, F, G, Ab, Bb, C)
・バイラヴ・タート = Harmonic Minor(C, Db, E, F, G, Ab, B, C)
・バイラヴィ・タート = Phrigian(C, Db, Eb, F, G, Ab, Bb, C)
・カリヤーン・タート = Lydian(C, D, E, F#, G, A, B, C)
・マールワー・タート(C, Db, E, F#, G, A, B, C) = 該当無し
・プールヴィー・タート(C, Db, E, F#, G, Ab, B, C) = 該当無し
・トーディー・タート(C, Db, Eb, F#, G, Ab, B, C) = マカーム(アラブ音階)の「アサル・クルディ」と同じ

 しかしラーガには、上行(アーローハ)/下降(アヴァローハ)という考え方があったり、その他、固有の強調音、開始音(グラハ)、終始音(ニヤーサ)、旋律単位(パカル、チャラン、ターン、サンチャーラあるいはヴァルナ)、さらに四つの句読法すなわち、ヴァーディー(ラーガの使用音の中で最重要な音)、サンヴァーティー(ヴァーディーに対して4度ないし5度の関係にある音)、アヌヴァーティー(ヴァーディーとサンヴァーティーを除いた他の音)、ヴィヴァーディー(調和しない音)などの定義もあるため、西洋音楽理論に置き換えて考えることには限界があり、実践においてはナンセンスである(これはアラブ・中東圏で用いられる各種マカームにも言えることである)。


※3. 北インドのヒンドゥスターニ音楽では、ラーガが、10のタートまたは親の音階(ヴィシュヌ・ナラヤン・バートカンデ Vishnu Narayan Bhatkhande による)へ最近分類され、南インドのカルナータカ音楽では、72の親ラーガを誇示して、メーラカルタ melakarta 分類と呼ばれる、より古くより系統的な分類スキームを使用する。

※4. たとえば台湾国民政府成立までは首狩り族だった台湾の先住民族は、ポリフォニー(同じ旋律を各声部が模倣する歌唱法)で歌っており、首狩り前に合唱するハーモニーの完成度で狩りをするかどうかを決めていた。ハーモニーが揃わない時はチームワークが良くないので、戦いに負けてしまう可能性が大きいからである。またこうした多声合唱は、ボルネオのケニア族やインドの東部ナーガランドの山地民にも見らるし、ディレイ的効果を持つ多声合唱として、タイとミャンマー国境近くのアカ族の合唱やアイヌ民族のウポポがある。またリズムの多声性として、ボルネオのビダユ族やフィリピンのルソン島のカリンガ族が挙げられる。
 社会形態が王様による権力支配の段階になると、音楽はポリフォニーからユニゾンへと変化する。支配者の命令に従って、個人の都合や好みを無視して皆が同じ旋律を歌うということは文化的なのである。世界の四大文明(メソポタミア、エジプト、中国、インド)に関係する地域の音楽はユニゾンなのである。ヨーロッパは例外的にハーモニーや対位法を基本としているが、わずか数百年前までは、今日のヨーロッパ人を構成する大きな要素でもあったゲルマン民族のバイタリティを持っており、先に述べた首狩り族のようなポリフォニーの音楽だった。しかしその後急激な高度成長において、ユニゾンになる暇もなく、特殊な形で現在に至っている。これは東洋の音楽が、周辺諸国との交流を保ちながらも独自の孤立した音楽を育んだのに対し、ヨーロッパの音楽はルネッサンス後に、ベルギーやオランダ、ドイツ、フランス、イギリスなど音楽家がその時代の中心になった国に移動することにより、お互いに影響を受けながら、ひとまとめになって発達してきたという歴史があるためである。

※5. だが本家から見た彼らのインド音楽への接近は、少々辛口の反応である。たとえばラヴィ・シャンカールは、ジョン・コルトレーンの音楽を「個人的には好きだが、混乱に満ちている」とし、ジョージ・ハリスンに対しては「シタールという楽器をどう構えてよいか教わったに過ぎない」と、厳しいコメントを残している。

※6. 上行:C, E, D, F, E, G, F, A, B, A, C / 下降:C, A, B, G, A, F, G, E, F, C の音階を持つ(便宜上 KEY=C にて表記)。時間帯は常時。

roma instruments

(画像:ラジャスタン地方の民族芸能集団が使用している楽器の一部。ジャイサルメールの Desert Culture Center & Museum にて撮影。このミュージアムにはたくさんの楽器が陳列されており、どんな楽器を紹介しようかと迷ったが、スペースの都合上、今回は代表的なものを紹介するに留めた(※1)。他にも蛇つかいのジョーギーの使うビーンもしくはプーンギーと呼ばれる二管の吹奏楽器(※2)など、個性的な楽器は数多くある。【2009.6.23追記】ビーン(プーンギー)は、画像右上にあるムルリと同じものです



 今回はラジャスタン地方の音楽集団の中で、ランガと共にポピュラーであるマンガニヤールの使用楽器について少し触れてみたい。

■ カマイーチャ Kamayacha, Kamaycha
 今となっては演奏者がめっきりと少なくなった、マイルドな揺らぎのある音を出す擦弦楽器。カマンはアラビア語で「狩猟の弓」の意。弓奏楽器は中世ペルシアではカマンチェ、トルコではケメンチェ、アルメニアではキャマンチャ、エジプトではカマンジャと呼ばれ、ロマの西への変遷との関連性を感じさせるが、弓の起源を辿ると九世紀のペルシアに最初の記録があり、弓奏楽器が文明社会に出現したのは八世紀から九世紀であることから、おそらくカマイーチャはペルシアから伝わったものではないだろうか。また中央アジアのトルコ遊牧民族では、中部東部でギジャック、西部でケマンチェと弓奏楽器を呼ぶ。(カマイーチャの演奏映像はブログ過去記事『manganiyar, rajasthan folk』メイキング編(3)をご覧ください)

■ ハルモニウム Harmonium
 イギリスの長い植民地支配の十九世紀に、ハルモニウム(※3)と呼ばれるドイツで発明された手フイゴ式の簡易オルガンが伝わると、ラジャスタン地方の民族音楽にも影響を及ぼした。調性の変更が簡単で、即興演奏にも適応しやすいハルモニウムがカマイーチャに取って変わって使用されるようになった。
 このハルモニウムはリコーダーが並べられたようなパイプオルガンでなく、日本の笙のように吹いても吸っても鳴るリードが箱の中に並べられていて、基準音を取るのに非常に重宝された。インド音楽にかかせないドローン(単音の持続音)もボタンで操作でき、アーラープ(導入部)の演奏の自由度も増して、北インドのヒンドゥスターニ音楽の情感的な即興演奏的な面が、より洗練された形となってラジャスタン民謡にも取り入れられた可能性が大きい(マンガニヤールによるハルモニウムの演奏映像はブログ過去記事『manganiyar, rajasthan folk』メイキング編(4)をご覧ください)

■ ドーラク Dholak
 太鼓はリズムをキープするという感覚で考えられているが、民族音楽では歌も旋律楽器もリズム感がないと表現できない。すなわち太鼓は「律動的バリエーション」を表現するためにあり、しばしば「時間的メロディ」も表現する。ドーラクはまさにそれを体感出来る両面太鼓である。片側の鼓面が若干大きく、内側からコールタールに混ぜ物を加えたり重りを張る。もう片側の鼓面は全くシンプルである。ドーラクは「ドール」の小型という意味で、またドーラクの小型は「ドールキ」という。鼓面にはマサラ(数種の香辛料を配合した食材とは別のもの)と呼ばれる、米の糊やタリマンドの樹液、マンガンなどの金属粉を混ぜた黒いペースト状のものが塗りつけられており(※4)、豊かな倍音を響かせる。
 エジプト南部のナイル川上流のアラブ農民サイーディーの音楽でも両面太鼓は使用されるが、西アジア名のダブルと呼ばず、インド名のドーラ(ドホッラ)と呼び、また大型の花杯型片面太鼓タブラ・バラディも使用する点も興味深い。

■ カルタール Kartal
 フラメンコとの関連性から見ても気になる二枚の笹蒲鉾型の打楽器。ラジャスタン地方では楕円形もしくは長方形の木製の板であるが、北インドでは拍子木にヤモリの顔が彫られ、木枠に小さいシンバルが付いているものもあり、チプリと呼ばれている。また中央アジアにもタシュ・カイラークと呼ばれる笹蒲鉾型の打楽器がある。
 ランガやマンガニヤールがカルタールを両手に掲げて演奏する様は、南スペインのバイラオーラがパリージョスを操る姿と重なり、インドとフラメンコの繋がりを感じさせるものである。
 日本でもカルタールに似たものとして「四つ竹」が挙げられる。四つ竹は、歌舞伎や琉球古典舞踊の花笠、郷土芸能の春駒、各地の民謡等で使用され、井原西鶴の「大鑑」によれば、一六五二年に長崎の一平次という男がはやり歌の拍子に用いたのが初めとされている。また放下僧と呼ばれる漂泊の芸能者や「日本のジプシー」と称されるサンカ(山窩)も門付け芸に四つ竹を使用しており、ラジャスタン地方の放浪芸とも重なって興味深い。

■ 口琴 Jew's harp
 口琴は金属や竹、木、木の皮、骨などで出来た弁を口にくわえて振動させて音を出す一種の体鳴楽器である(これは中国における楽器の区分であり、厳密には区分が難しいとされている)。アニメの「ど根性ガエル」の主題歌や、ザ・フーの「ジョイン・トゥゲザー」で聴くことのできる、あのビョ~ンとした音である。小さくてシンプルな構造だが奥の深い楽器で、製作にも演奏にも高度な技術を要する。
 口琴は世界中に分布していて、特に東アジアで多く使われているが、ジプシー音楽の盛んなハンガリーやルーマニアでも使われていて興味深い(ヨーロッパにはウラル・アルタイル系のフン人が伝えたという説がある)。北インドでの素材は鉄で出来ており、モルチャング morchang と呼ばれ、私が観たマンガニヤールのセッションにおいては、打楽器ドーラクとの合奏はプログラムの前半と後半を繋ぐ楽曲として重要な役割を果たしていた。モルチャングはリズム楽器的な扱いとされているようだが、ソロ楽器としても充分に存在感があり、ジャイサルメールの民族資料館において、目の前でスタッフによるモルチャングの即興演奏を聴かせてもらった時には、倍音成分が多い豊かなその音色とその演奏技術に舌を巻いた。それはまるで北アジアにおける喉歌「ホーミー」を彷彿させるものでもあった。
 口琴のルーツを紀元前のモンゴルとする説もあり、当初はシャーマニズムと深い関わりを持っていたとされている。口琴を奏でることによって口腔に「あの世」に通じる異空間を作り出し、音の持つ波動や竹などの素材の霊力により、場を鎮め、神を呼び寄せ、魔物を浄化する効果をもたらすと考えられていた。インドの伝来当初にシャーマニズムの道具として使われていたかは定かではないが(女性や子どもの楽器および玩具であったという説あり)、たとえばシャーマン的要素の強い原始的なカーリー信仰で使われたとしても肯ける話ではないだろうか。シャーマニズム的な魅力も相まって、小さくて携帯性にも優れていたことから、ロマが口琴を放浪の友として愛用していた姿が目に浮かぶようだ(※5)。


(次回予定『インド音楽理論について少し』/毎週木曜更新)
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※1. 画像中の弓奏楽器サーランギはその魅力的な音色から、しばし美しい女性の歌声に形容される。スィンディー・サーランギ(スィンド族型)、さらに小型のグジャラータン・サーランギ(グジャラート族型)、ジョギー・サーランギ(修行僧型)などの種類を持つ。楽団によってはサーランギ系以外の弓奏楽器サーリンダー(ランガが好んで使用)、サローズを用いたり、ドーハーと呼ばれる武勇伝を歌いながら巡歴するアジメール地方の吟遊詩人チャラン Charan はラワージ(ターン・セン・ラバーブ派の生楽器)、グジャール族はジャンタール(古代ヴィーナの変種)という非常に興味深い撥弦楽器を用いる。
 クルト・ザックス Curt Sachs によると、サーランギは中央アジアの西部から伝わったとされ、原始的なものがコブズとして、キリギス人やダッタン人(タタール人)の間で今日も使われている。

※2. ふくらんだ瓢箪に二本のシングルリードが取り付けられたこの楽器は、他にヒンディー語でトゥーンビー(トゥームリー)、パーングラー、サンスクリット語でティクティリー、タミル語ではマグディとも呼ばれている。鼻から息を吸いながら口の中に貯えた空気で笛を吹き、その空気がなくなる前に肺から息を出し、笛の中に吹くと同時に口の中に貯え、これを間断なく繰り返して常に同じ強さで笛を吹くといったサーキュラー・ブリージング(循環呼吸)を用いる。ローランド・カーク、ソニー・ロリンズ、デューク・エリントン楽団のハリー・カーネイなど、ジャズ・ミュージシャンの管楽器奏者にもよく使われる奏法である。
 南インドでは、蛇つかいは「蛇に好まれるラーガ(プンナガ・ヴァラーリー)」の中からいくつかの音を使うという。プンナガ・ヴァラーリは、上行:Bb, C, Db, Eb, F, G, Ab, Bb / 下降:Bb, Ab, G, F, G, Eb, Db, C の音階を持つ(便宜上 KEY=C にて表記。インド音楽理論については次回記事で触れます)。北インドでは、かん高い音で短い定旋律を鳴らすことが蛇の注意を引き起こすと言うが、蛇には聴覚がないので、蛇は蛇つかいの体の動きに反応しているに過ぎない。
 クルト・ザックス Curt Sachs によると、プーンギーはヨーロッパのフリギア旋法に似ているハヌマトディ旋法を用いる。シングル・リードの楽器はインドより東の国にはまれにしか見られない(たとえば中国雲南省のドアン族のひょうたん笙「ブライ」)から、プーンギーは西方からの影響のものだと考えられている。

※3. ブログ過去記事では「ハーモニウム(英語発音)」と表記していたが、以降はインドで使われている「ハルモニウム(ドイツ語発音)」に変更したい。
 ちなみにこの据え置き型のオルガンは、大きく分けて「吸気式ふいご」と「吐気式ふいご」の二種ある。北アメリカでは吸気式を「リード・オルガン」、吐気式を「ハーモニウム」と呼んで区別してきたが、ヨーロッパ諸国においては、どちらも区別なく一律「ハーモニウム」と呼ぶという習慣の違いがある。
 ヨーロッパ伝搬の楽器であるにも関わらず、今や世界のハルモニウム製造の中心地はコルカタ(元カルカッタ)になっている。

※4. 鼓面に塗られるものとしては、ヒンディー語でスィヤーヒー、タミル語でソールと呼ばれるマサラと同素材の混合物もあるが、これらがマサラと同じものかは未確認である。

※5. 口琴は日本やアジア圏とも密接な関連性があり、さらに深く追求すると面白いテーマなのだが、前回の追伸と同じ理由につき、今回は概要を述べるに留めておきたい。

roma morchang

(画像:映像作品「manganiyar, rajasthan folk」の未発表映像より。口琴(北インドではモルチャング morchang と呼ばれる)を奏でるマンガニヤールのポーテ・カーン氏)



 ブログ過去記事『manganiyar, rajasthan folk』メイキング編(1)でも簡単に触れているが、インド・ラジャスタン地方には数多くの民族芸能集団がいて、前述した踊り子のカルベリアはもとより、蛇つかい、うた、踊りなどの門付け芸を生計とする漂泊民ジョーギー、そして超絶的な技巧を持つランガやマンガニヤールなどの楽士たち、人形つかいや絵解きをする芸人ボーパがその代表である(※1)。
 多彩なインドの音楽文化の歴史において、ラジャスタン地方がもたらした功績は大きい。重要な楽士たちは、好戦的で勇敢なラージプート族に仕えていたが、その支配者の宮廷では芸術家に対する保護が比較的際立っていた。こうしたことから、この地域では重要な音楽理論の諸文献が生まれている。そして彼らが魅力的な表現者であることは、ラジャスタン地方が「砂漠の地」であるという地域的要因も大きく影響しているように思う。

 砂漠に暮らす人々は、肥沃な土地で農耕を営む人々と比べるとリズム感が根本的に異なっているように思う。古くから農業を生活の糧としてきたわれわれ日本人や東南アジアの人々は、四季の変化を植物の育ち具合や種蒔きや収穫の時期と結びつける。一年を一周期とする大きな季節のリズムによって生活全体が営まれている。そして定住化することで周囲との関係にも細心の注意を払い、自己主張はなるべく控え、個人の力量や才能をあまり重要視せず、家柄や血筋の方を大切にする。
 こうした環境の中では、ダイナミックで飛び跳ねるようなリズム感が育つ可能性は少ない。それよりもゆっくりと次第に変化する四季のように、また少しずつ成長する植物のテンポ感や、繊細でひたむきな農作業に似たリズム感の方が生活に合っている。そして楽曲の構成においても、作物が時間をかけて育つ過程を見るように、全体として緩急に富んだメリハリのついた構成、まとまった形式が自然として受け入れられている。日本においては、箏曲、三味線音楽、尺八といった芸術性の高い伝統音楽になるほど、この特徴は顕著に見受けられる。

 一方砂漠に暮らす人々は、一年周期の植物を相手とする生活よりも、動物を生活の糧とすることが多い。山羊やラクダなどの動物の育成は、種蒔きから収穫までのように一斉に行われるものはなく、仔を産み、ミルクを採り、常に世話をしなければならない。時期によっては漂泊する必要にも迫られ、仕事のテンポになる単位は農耕民よりも短い単位、つまり「速く」、「臨機応変に反応する動物的なリズム」と言えよう(※2)。彼らは個性的で激しい表現を求める。個人の力量や才能は、家柄や血筋よりも大切であり、表現の原則としては調和や釣り合いよりも、コントラストや急激な変化を求める。楽曲の構成においては、予定調和でいかない砂漠の生活のような短いフレーズの繰り返しが多く、いつ始まっていつ終わるのかまるで見当がつかないような形式が多い(※3)。

 インターネットが普及した現代においては、その生活形態も純粋な「農耕民文化」とか「牧畜民文化」などと単一的に捉えることが難しくなってきている。どの民族もいろいろな生活形態の混合であり、また歴史的な変遷や外部からの影響が、それらを一層複雑なものにしているからである(※4)。とくに商業音楽や芸術音楽においては多種多様な影響が見受けられ、もはや一元論で語ることはナンセンスである。しかし土着的な生活に密接し伝承されてきた民族音楽という側面では、単一文化論で語ることがまだ許される面もあるのではないだろうか(※5)。

 実際、放浪ジョーギーたちの唄を聴くと、砂漠の厳しい環境で鍛えられた喉からは、まさに力強い歌声と跳ねるようなリズムを感じるし、ランガやマンガニヤールの演奏においても、両面太鼓ドーラクとカルタールの織りなすリズムは、激しく感情的である。それはまるで不毛で厳しい環境に戦いを挑むかのような闘争本能にすら思える(※6)。
 この砂漠特有のリズム感が、西へと向かったロマの体にも染みついていることは想像できる。ルーマニアやハンガリーでは、民族音楽と共に昇華した形でそれは顕著に見られ、狂ったような速度で展開されるアグレッシヴな曲調は、まるで世間の嘲笑や軽蔑に対する彼らの心の叫びであり、また偏見からの逃避願望であるかのようにも思えてしまう。
 スペインのカンテ・フラメンコにおいても、魂の奥底から響いてくるような太い地声(カンテ・ホンド)や、恥も外聞も気にせずに表現する情感は、砂漠のような厳しい人生との闘いを感じさせるものである。力強さと繊細さと狂気が同居しているジプシー音楽に、私は人生の根源的な不条理を照らし合わせ、引き込まれずにはいられない。


 不条理な創造は、つづいて、その深い無用性を示すものでなければならぬ。知力と情熱とが混じりあい、たがいに運びあっている、不条理な創造というこの日々の努力のなかに、不条理な人間は、いつかは自分の力の本質をなすものをつくりあげてくれる訓練を見いだす。(カミュ『シューシュポスの神話』)


【追伸】本文では触れることが出来なかったが、絵解きのボーパ、動物芸(熊・猿・蛇)、籠つくりなどもロマの変遷を辿るのに重要な要素である。同時にそれは東南アジアや中国の民間芸能、古来の日本の放浪芸、サンカ(山窩。「日本のジプシー」と呼ばれた放浪民)の生業などと重なる面も多く、大変興味深い内容なのだが、今回のトピックスの意図から外れてしまうので、いつか機会を見て触れられれば思う。


(次回予定『マンガニヤールの使用楽器』/毎週木曜更新)
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※1. 彼ら民族芸能集団は、ジャジマーンと呼ばれるパトロンたち(ラージプート王家の氏族的系譜、またはその他のカースト集団など)の庇護を受けながら、芸能活動をして報酬を得て生活の糧としていた。現在では観光客を新たなパトロンとして生き長らえてきているが、芸能本来の儀礼的な側面はだんだんと形骸化し、簡略化されてしまっている。彼らの表現に対する魂までもが形骸化してしまわぬよう、我々は正しい認識や尊敬の念を持って、彼らと接することが大切ではないだろうか。

※2. ちなみに騎馬民族系のリズムは三拍子系が多い。これは馬に乗っている時のリズム感に基づいているものである(だが古い蒙古族は四拍子系であり、これは長い距離を移動するため、馬の乗り方に違いがあるとされる)。農耕民族や古い蒙古族のように、常に体重をどちらかの足で支えている動きは、躍動的な三拍子のリズムにはなり難いようである。インドから西に向かったロマはキャラバンを使って移動したようだが、彼らは何拍子のリズムを感じていたのだろうか。徒歩の二拍子か、牽引するラクダや馬系の動物の三拍子か、それとも繋がれた荷車に揺られて別の拍子を感じていたのだろうか。興味深い話である。
 ちなみにフラメンコの基本リズムの十二拍は「三拍・三拍・二拍・二拍・二拍」で、騎馬民族系の三拍子と砂漠系の二拍子が混合しており、さらに二拍子の部分は全てオフビートである。これがロマが生み出したフラメンコ独特のリズムであるとしたら、彼らのリズム感覚の多様性に驚きを隠せない(リズム感は天性のものであり、後天的に自在に変えることは難しい)。特にオフビートは黒人系のビートであり、彼らがアラブやオスマンの変拍子だけでなく、アフリカの影響を受けている証拠にも繋がるのかもしれない。

※3. アニミズムにふさわしい自然に囲まれた我々の生活とは異なり、不毛な砂漠では、乾いた不安によって思考が終わりのない想念を呼び起こし、人は湧き上がる想念を絶つために抽象思考、幾何学的世界を作り上げたのかもしれない。それは短いフレーズを繰り返す音楽だけでなく、イスラム圏ではアラベスク模様となって昇華した。砂漠の生活における「繰り返し」は、われわれが思っている以上に心地よいものである。イスラムはその繰り返しの中に、絶対的な存在の象徴としてアラーを求めたのである。

※4. ラジャスタン地方の芸能者たちも、芸能だけで食べていけるのはほんの一握りの人たちだけで、後は物乞いを始めとする何らかの仕事を兼業しているのが現実である。たとえばジョーギーは小作農や石切の人夫役、カルベリアは竹の伐採と石臼つくりなどにも従事している。砂漠においても農耕民文化の影響は多少なりとも受けていると考える方が自然である。

※5. これは私の個人的な想いである。世界各地の民族音楽が現代まで全く変化しせずに伝承されているかといえば、そうとも言い切れない。長い伝承の途中に創造的な衝動のために変容したり、勘違いで記憶されたものが伝わったりするほか、伝承者の美的な価値観の影響や、ほかの音楽様式の影響も受けたりと、時の変遷と共に様々な変化は生じているだろう。だが民族音楽はこのような民族共同体による再創造を繰り返して、今日まで生き長らえてきたこともまた事実なのである。その民族音楽こそが、その土地に暮らす(さらに国を離れて暮らしている)人々にとってのアイデンティティの拠り所として、重要な役割を担っている。情報化社会がさらに発展し国境の概念がより希薄になれば、その重要性がますます見直されてくるのではないだろうか。

※6. 「道の手帖:サンカ 幻の漂泊民を探して/河出書房新社」における評論家の堀切直人氏のノマドの分類は興味深い。文中の狩猟採集民は、ラジャスタン地方の漂泊芸人に置き換えられる面もあろう。
 『同じノマドでも遊牧民と狩猟採集民とは、まったくタイプを異にする別人種である。遊牧民は、畜獣を支配、統制する生活形態ゆえに、誇り高く尊大で、戦争機械を発明するほど攻撃的で、農民や狩猟採集民を軽蔑している。一方、狩猟採集民は、日々の食料として野の獣を狩り草木果実を採集するのみで、自然を支配したり統制したりする野心を少しも持ち合わせていない。彼らにも棲み分けのための縄張り意識はあるが、定住民とは違って一定の土地に根をおろしたりしないから、定住民の心を虜にする所有欲や領土拡張欲とはおよそ縁がない。彼らは遊牧民のように攻撃的でも尊大でもなく、平和愛好的で謙虚であり、農民のように富の蓄積に執着せず、その心は晴朗であり、子どものように無邪気である。(中略)狩猟採集民は、これまで長らく、不安定と混沌の世界に、欠乏の恐怖に悩まされながら生きていると考えられていた。ところが、調査が積み重ねられ、彼らの生活の実状が知らされるようになるにつれて、物質面では貧しさの極みにあるような彼らは、内面においては、所有欲や支配欲に汚染されない、安らかな世界に生きていることが明らかになってきた』


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