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The-Heart-of-Hindu13

 ミーナルは、聖者シュリ・シュリ・ラヴィ・シャンカール Sri Sri Ravi Shankar が主催するバンガロールの The Art of Living で瞑想の講師をしている沈魚落雁な女性である。リシケシュのラムジュラから五キロほど南下したスワミ・スワッタントラナンド・アシュラム Swami Swatantranand Ashram にてラヴィ・シャンカールの講演が開催されるため、わざわざバンガロールの事務局からやってきたそうだ。

 リシケシュのガンガーはハリドワールのそれよりも水温が低く、流れも急である。ラクシュマンジュラから少し上流側では、ゴムボートによるラフティングが盛んに行われているが、現地のインド人によると、この界隈では毎日と言っていいほど、水遊び中に流されて溺死するという事故が多発しているそうだ。実際、滞在したゲストハウスで隣室だったオースラリア人のプロダイバーのプレーム氏からも、「河で泳いでいたら三人の大男が流されてきた。二人は助けられたけど、一人はダメだったよ・・・」という話を聞かされたこともあった。

 ミーナルの撮影はスワッタントラナンド・アシュラム近くの岸辺で行ったのだが、ここも結構な水流で、しかも刺す程の強烈な冷たさ。こんな状況にも関わらず子どもたちは平気で水遊びしているし、ミーナルも十分以上足を水に浸している。私も試してみたけど三分と持たなかった。さらに彼女は流されないよう一人の女性にサポートしてもらいながら、頭まで水に潜りはじめた。下流域のハリドワールですら河の流れは結構速く大変そうだったが、ここでの沐浴はさらに過酷さが増している。ハリドワールは格が高い聖地とされているが、精神的な浄化力はさらにリシケシュ以北の上流が強そうだと感じさせられた。
 ミーナルの濡れた髪が太陽の光に反射して、艶やかな色気を醸し出している。彼女と水の女神ガンガーが重なった瞬間。あぁインド女性ってやっぱり美しいなぁとしみじみ感じさせられた。沐浴後、岸に上がって歯をカタカタと鳴らして震えているミーナルの手を握らせてもらうと、びっくりするほど冷たく、体温が全く感じられない。沐浴は荒行なのだと思わずにはいられなかった。

 後半に流れる女性の美しいソロボーカルは、サンプリング音源を使用して制作。残念ながらミーナルではない。別サンプルからブレス部だけを抽出し、小節の間に追加してリアル感を出した。ガンガーの水音は、同じ場所で 96kHz/24bit で別録りした音源を使用。あまり主張し過ぎないようにイコライジング処理で低音域と高音域をカットしたが、ヘッドフォンで聴くとまだ高ヘルツ側のノイズが少し残っているかもしれない。心地よい水音と雑音とは紙一重なのである。
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The-Heart-of-Hindu12

 ラーマ王子の妻シータ姫を意味するシータラムは、サドゥとは別のグループに属するビシュヌ系の放浪民である。彼はリシケシュのマハリシ・マヘシュ・ヨギ・アシュラムの近くの川岸でテント暮らしをしており、マハリシのアシュラムでのガイドの仕事を生業としている。ちなみに「シータラーマ」の方が一般的な言い方のようだが、現地で実際に多く耳にした「シータラム」表記を採らせて頂くことにした。Ganesha → Ganesh のように、ヒンディ語ではサンスクリット語の末尾の母音が省略されることがある。

 マハリシ・アシュラムでの撮影を済ませての帰り道、河岸にぽつりと建っていた黒ビニール製のテントの前にサドゥらしき老人が佇んでいるのをふと見かけたので、興味本位で近づいてみた。小屋の中に導かれ、埃っぽい絨毯の上に腰を下ろす。名前を尋ねると「オレの名はグルだ!」と意味不明の返事。ちょっとヤバい人に当たったかなぁと不安になる。さらにいきなり鎌を眼の前で振りかざし「こうやって客を脅す奴がいるけど、オレは心配ないよ」と・・・。あぁやっぱりちょっとマズかったかなぁと軽く後悔。
 巻貝を素っ頓狂な音で鳴らし、「歯がほとんど抜けてしまったから、変な音しか出ないんだよ・・・」と照れ笑いをする。屈託のない笑顔を見たら、だんだんとこの老人に興味が湧き始め、礼拝や数珠を使ったジャパ・ヨガの光景、チャイを作る光景など、色々と撮影させてもらうことにした。間近で聞こえるガンガーの水音も心地よく響いて、平和なひとときだ。

 本作品の編集では、彼を寡黙な印象に仕立ててみたのだが、実際はかなりの饒舌家。寂しかったのか、一人で勝手に喋りまくっていた。そのうち「この前来た観光客は、オレがこんなボロ家に住んでいるってんで、五百ルピーとか千ルピーとか気前よくバクシーシしてくれたんだよなぁ」と、明らかに勝手に高額のバクシーシを期待し始めて上機嫌になっている始末。まいったなぁ、こりゃ後で揉めそうだなぁと不安が過るが、構わずに平静を装い(まぁ喧嘩になっても負けることはないだろうし)、気持ち程度のバクシーシを残して帰ろうとした時、老人が「千ルピー置いてけ!」と案の上烈火の如く怒り出した。予想通りの展開(苦笑)。
 「失望したよ。あんた偽物聖者なのか?」「他の聖者はもっと紳士だったぜ」と、こちらも煽るように応戦。結局すったもんだを繰り返して、こちらが最初に差し出した金すら受け取らないほど相手が意固地になってきたので、後味の悪いままテントを後にするしかなかった。

 その直後、近くの広場で暮らしている放浪民たちと撮影セッションを楽しんでいたら、さきほど揉めたシータラムがツカツカとやって来て(やっぱり寂しいのか?)、「く~ぅく~ぅぺう」「あふぅ~」と意味不明のことばを言い始めた。おそらく日本語で「くるくるパァ~」「アホー」と言いたかったのだろう。その子供じみた所作に思わず吹き出しそうになるものの、必死で堪え、怒った振りをして大声で一言「チェロ!」(失せろ)と一喝。老人は何やらモゴモゴと捨て台詞を吐きながら、その場を立ち去っていった。
 なんだかよく分からないシータラムのテント滞在となってしまったが、でもこの老人はどこか憎めない。彼のこころは子どものように純粋無垢だったのだ。

The-Heart-of-Hindu11

 ルドラクシャ(菩提樹の実)は、サンスクリット語でシヴァ神<ルドラ>の目<アクシャ>を意味しており、古典文献ではシヴァ神の目から流れ落ちた涙とされている。原産はインドやネパール、インドネシア。
 ルドラクシャには血圧を下げる働きがある。身につけているだけでもその効果があるとされるが、さらにルドラクシャを銅製以外のコップの水に一晩浸し、翌朝胃が空の状態の時に飲むとさらに効果があるそうだ。なお紅茶でよく知られるリンデンと呼ばれる菩提樹の葉や花にも血圧を下げる効能があるのだが、このリンデンは西洋菩提樹であり、ブッダが悟りを開いたとされる(そしてマノージギリが作品で説明している)インド菩提樹とは別の種類のものである。

 さてこのルドラクシャだが、一面から一四面に分類される。エークムキー(一面)ルドラクシャは最も出回っているが、中国で大量生産されている樹脂製の偽物も多いようだ。偽物はアートムキー(八面)以上のレアで高価なものにまで及んでおり、もっともポピュラーなパーンチャムキー(五面)でも近年偽物が出回っているらしい。
 真贋を見分ける方法のひとつとして、ルドラクシャを沸騰した湯の中で煮ることが挙げられる。樹脂製の偽物であれば、その高熱によって形が変形したり、接着剤が剥がれて二つに分離する。ただこの方法だけでは万全ではないため、X線撮影をして内部の種の数を数えるという方法がさらに確実だ。面の数と種の数が一緒ならば本物ということになる。
 インドでも実際にかなりの数の偽物が出回っているそうである。現地の人からも「露店で買わずに専門店で買った方が良いよ」と何度も釘を刺されたし、さらに専門店でも必ずしも本物が売られているとは限らない。素人が見た目で真贋を判別するのが難しい物だけに、なかなか買い物が難しそうな一品。

 ルドラクシャはその面数によって、様々な神々が守護している。例えばエークムキー(一面)ならばパラマブラフマー、ドームキー(二面)ならシバ神とパールヴァティー女神、チャールムキー(四面)ならチャトゥラーナナと言った具合だ。さらに本編でマノージギリは表面の文様にも意味を見出していて、オーム、ガネーシャ神、シバリンガムなどと説明してくれたが、クムラ(ヒングラージ女神に関連しているようだ。【2013.2.21追記】シヴァ神とガンガ女神の息子で、クジャクに乗って悪神軍団を退治する軍神スカンダの別名「クマーラ」を示しているのかもしれない)など聞き慣れない名称も出てきて、確実に裏が取れなかったものに関しては字幕に (?) をつけることで対応させて頂いた。

 自然の中に文字を見出す行為に聖なるものを感じる。これを単なる偶然と見るか必然と見るかで、世界のあり方はがらりと変わってしまう。このような見方は仏教では「縁起」と言われる。畢竟すべては「空」であり、観測される対象と、その周辺の無数の縁による相互的関係的な出来事によって物事は成立している。「ある」か「ない」の二元論で語れるものではなく、「ある」ということが起こる事もあるし、起こらないこともある。すべての現象は「縁」なのである。
 さらにマノージギリは「3」と「M」をラッキーアイテムとしているようで、私の手相に大きな「M」が刻まれていたこと、そして私の日本名、彼から授かったインド名、そして彼の名の頭文字が全部「M」になっているからという、もはやこじつけとも思えるような理由から私をファミリーとして迎えてくれたのだが、これも「ある」か「ない」の二元論で語れる現象ではなく、やはり「縁」なのだなぁとつくづく感じた。

 ところで、映像でマノージギリはオームの意味を「お袋、親父、そして神」と素晴らしい解釈をしている。一般的にオームは「宇宙の始まりや終わりを示す音」「a は維持神ビシュヌ、u は破壊神シバ、m は創造神ブラフマーを示し、トリムールティ(三神一体)の真理を表している」などと抽象的に説明されるが、「両親と神様を大切に」というマノージギリのシンプルなことばの方が、ダイレクトにこころに響いてこないだろうか。

The-Heart-of-Hindu10

 早回しのシーケンスは、ハリドワール駅前のホテル街シヴゥ・ムルティ Shiv Murti、ハリドワールからカンカール行きの道中、リシケシュのラクシュマンジュラの寺院、ハリ・キ・パウリー Hari Ki Pauri 等で撮影したもの。クンブメーラ期間中のハリドワール中は警察官の数が半端なく多く、ストリートで三脚立てて撮影でもしようものなら、ものの数分で「撮影はダメ!」と注意されてしまう。こっちも簡単に引き下がりたくないので、「あと一分だけ」「もう少し」と粘って、やっといくつかのシーケンスを確保できた。

 シャヒ・スナン Shahi Snan(Royal Bath)と言われる日にはサドゥの大行進が催されるのだが、それこそ人ひとりが立つのもやっとなくらいの混雑具合なので(しかもこの時期の中堅ホテルは軒並み二千ルピーほどに高騰するのだ)、当日の撮影を諦めてリシケシュに移動してしまったのだが、クンブメーラ期間中ということもあってか、普段の日ですら警備は厳重であった。
 このサドゥ大行進の模様は、前月のものがすでにビデオCD(インドはこの規格が多い)で出回っており、店頭で全編閲覧してみたのだが、やはりあの混雑状況の中では三脚を固定した動画撮影はおろか、手持ちによる写真撮影すら難しいだろうと思った。サンガムのような広大かつ土臭い情緒的な風景とは違い、このハリドワールの行進はハイウェイや町中のストリートを練り歩くものだったため、どうも興冷めしてしまったというのが本心である。「俺がおまえの住民登録してやるよ。一緒にパレード行進できるし」とマノージギリが勧めてくれたものの、そんな理由から今回はそこまで彼らの行為に甘えることは遠慮した。ちなみにインドの住民票の取得は、二枚の写真と一枚の申請用紙があれば済むそうである。本気でサドゥのファミリーになりたいと考えている人には必要かもしれないが、取得は自己責任にて。

 マノージギリからはインド名を授かったのだが、それは彼が昔使っていた名前とのこと。サドゥの世界でも、昔の日本の元服のような改名システムがあるのかもしれない。だが数日経ったら「え~っと、お前の名前って何だっけ?」と、名付けた彼自身が私のインド名を忘れてしまったほどなので、インド名を授かることにさほど意味はないのかもしれないが、彼が完全に「今」だけを生きていることは強く感じさせられた。

 さて早送り再生を前提にした映像撮影の場合、あらかじめビデオカメラのシャタースピードを遅くしておく必要がある。30P作品の場合、一般的なシャッター開角度180度にならうと、1/30 × (180÷360) = 1/60秒前後 のシャッタースピードが標準となり(だが地域によって蛍光灯のフリッカーが出る場合は、1/50等に適宜変更)、例えば6倍速再生の場合は 1/60 × 6 = 1/10秒前後 のシャッタースピードで撮影する。またスロー再生の場合はこの逆となり、例えば4倍スローの場合は、1/60 × 1/4 = 1/240秒前後 のシャッタースピードで撮影すればよいのだ。

The-Heart-of-Hindu09

 マハリシ・マヘシュ・ヨギ(一九一四~二〇〇八)Maharishi Mahesh Yogi は、超越瞑想(Transcendental Meditation = TM)で世界中で高い名声を得て、ビートルズの精神面にも影響を及ぼした聖者である。ビートルズが彼のアシュラムに滞在していた時に、高額な布施の強要や、同伴した女性信者に手を出そうとしたなどの諍いの話が今でも語り継がれているが、真偽の程は定かではない。ビーチ・ボーイズのマイク・ラヴやドノヴァン、ミック・ジャガーなども彼のアシュラムに滞在したようで、六〇年後半から七〇前半代にかけてのサブカルチャー・シーンでは特に影響力があったようだ。

 リシケシュのラムジュラから南に歩くこと二十分でアシュラムの入口にたどり着いた。横柄な政府役人から撮影機材持参だからと難癖を付けられ、通常の二倍の百ルピーを巻き上げられ(放浪民によるガイド同伴の場合は通常五十ルピー。またリシケシュ在住の白人がアシュラムのツアーを開催しているようだ)、ゆるやかな坂道をしばらく登ると堅牢な鉄製の門にたどり着いた。アシュラムはすでに雑草が生い茂った廃墟と化していて、さらに早朝の訪問ということもあって誰にも出会わず、薄気味悪さは倍増。ビートルズ関連の映像で馴染みの深い、六〇年代の清潔でリベラルなアシュラムの名残は微塵も感じられず、今はもう荒れ放題のただの廃墟。どうやらマハリシは九〇年にオランダに活動拠点を移した際に、税金対策でこのアシュラムを放置してしまったらしい。そして九七年以降は政府の森林局の管理下に置かれ現在に至っている。

 わさわさと繁っているブッシュからいきなりベンガル虎が出てきてもおかしくないような佇まいだ。時々頭上の枝がザワザワするのにビクつくが、どうやら小さな猿のようでホッとする。しかし虎とは言わないまでも、蛇くらいは居てもおかしくない雰囲気なので(実際にいるという噂も)、足下には絶えず気を配りながら小一時間かけてアシュラム内を二往復し、気になった箇所を色々と撮影してきた。今回のシーケンスでは「ビートルズの・・・」という枕詞は抜きにして、自分が純粋に興味を持ったもので構成してみた。

 一番気になったのはドーム型の瞑想施設だ。入口近くから河沿いのマハリシ邸の近くまで密集してており、その数は百以上。ジョン・レノンのラッキーナンバーであるNo.9ドームを入口ゲート近くで見つけたものの、構図的に好みでなかったので別のドームを撮影した。ちなみに「九」は中国でも陰陽思想の影響で縁起の良い陽(奇数)の極数とみなされて、ラッキーナンバーとされているし、歳差運動、たとえば地軸が一周するのにかかるのは25,920年、30度で2,160年、15度で1,080年、1度で72年であり、それらは全て「9」で割り切れる。さらには北欧の伝説やシュメールの粘土板古文書、エジプトの大ピラミッド、マヤのロングカレンダー、インド神話のリグ・ヴェーダなどにも歳差運動の数字が散りばめられており、「9」という数字は地球創造の秘密と大きな関係性があるという説もある。
 さてこのドーム型の瞑想施設だが、一階はバスルームと寝室、二階が瞑想スペースとなっている。こぢんまりとした佇まいで居心地は良さそう。茶室的な感覚。昔に暮らしていた都内のロフト付きの狭いアパート、さらにはオーストリアのアッター湖畔やヴェルター湖畔のマーラーの質素な作曲小屋や、ル・コルビュジェが晩年を過ごした南仏カプ・マルタンの休暇小屋も思い出した。狭い場所は集中力が増して、瞑想はもとより、クリエイティブな制作作業にも好都合だ。外壁の石がゴツゴツした感じは、仏像の螺髪(らほつ)を彷彿とさせ、さらに上部の外壁にはデーヴァナーガリー文字が形取られていたりして、なかなか手が込んでいる。
 このアシュラム廃墟は今後取り壊されて、星付きの観光ホテルが建設される話も挙っているそうだ。廃墟の滞在は感極まるほどのものではなかったが、取り壊される前に撮影出来たことはよかった。ビートルズに夢中だった中学生の頃から気になっていた場所だけに、長い時を経てやっと訪問できたのだから。

 BGMは、今回の作品の楽曲制作で一番最初に取りかかったもの。廃墟的な退廃感を音で表現してみた。心の師匠、武満徹氏のことが制作中に頭に浮かんでいた。こういったアブストラクト的な質感の方が、自分が作る映像との相性が良い気がしている。ポップな楽曲だとカラフルなメロディラインやコード進行、そして歌付きだと歌詞が強く主張してしまい、映像とぶつかってしまいがちなのだ。

 

The-Heart-of-Hindu08

 ジャイ・グル・デーヴァ Jai Guru De Va と言えば、ビートルズ時代のジョン・レノンが芭蕉にインスパイアされて書いたとされる美しい楽曲“アクロス・ザ・ユニバース”の歌詞を思い出す人も多いだろう。マノージギリが飄々と唱えるマントラは即興的なものなのか、オリジナルが存在するのか定かでないが、脱力具合がなかなか良い感じではないか。

 マノージギリは「グルとは 神 のこと」「デーヴァは マハーデーヴァ、すなわち シバ神 のこと」と語っているが、ここは人によって解釈が変わるようだ。グルとは導師のことであり、日常生活における導師が誰であるかで、デーヴァに相当する神や人物が特定されると言っても過言ではないだろう。“アクロス・ザ・ユニバース”を書いた当時のジョン・レノンならば、マハリシ・マヘシュ・ヨギ Maharishi Mahesh Yogi のことを示すだろう(少なくとも楽曲制作した渡印前はそうだったと思いたい。後に皮肉たっぷりの「セクシー・セディ」を作るまでにマハリシに失望することになるのだが・・・)。また、Devは特定の人物を示すが、後ろに a がついて Deva となると人物は特定せず、神そのものの意となるという考え方もあるようだ。

 なお字幕については、「シヴァ神 → シバ神」「Aum → Om」など、できるだけ短く表記しているのだが、「マハーデーバ」ではどうも気に入らなかったので、そのままマハーデー「ヴァ」表記とさせて頂いた。

 マハリシの弟子だった聖者シュリ・シュリ・ラヴィ・シャンカール Sri Sri Ravi Shankar(有名なシタール奏者とは別人)のリシケシュでのイベントで感動的なバジャンを撮影させてもらい(本編のチャピター19/20で堪能できます)、関係者とメールアドレスの交換をさせてもらった際に、何人もが Jai Guru De Va の頭文字を取った "jgd" をアドレスに使っていたり(例:jgd.xxx@xxx.com)、帰国後にそのひとりからメールをもらった時に、 文章の書き始めが "jai guru dev, ......" となっていたのがなんとも興味深かった。

The-Heart-of-Hindu07

 ヒンドゥ教における沐浴は、人を宗教的に浄化し、罪を洗い清めて功徳を得るものだと信じられている。

 インドの聖なる沐浴地としてはバラナシが有名だが、ここハリドワールでは、メインガートのハリ・キ・パウリー Hari Ki Pauri や、その周辺のガート(川岸の階段)で沐浴を堪能することができる。ハリ・キ・パウリーは、<シバ神>を示す "Har" や、<ビシュヌ神>を示す "Hari"、英語の of に相当する "ki"、<足跡>を示す "paudi" から、「神の足跡」という意味を持つ。古いヴェーダ時代に、この地の神聖なブラフマクンド・ガート Brahmakund にシバ神とビシュヌ神が現れ、ビシュヌ神が石の壁に足跡を残したという伝承から、このハリ・キ・パウリーの名が付けられたとされている。

 沐浴の方法は人それぞれだが、女性は沐浴用の服に着替え、男性は水着や下着のままで水に浸かっている人を多く見かけた。老若男女問わず、みながこの清めの儀式に熱中している光景は感動を誘う。トランス状態に陥りヒステリックな叫び声を上げて失神寸前の女性や、大勢の側近を従えて荘厳に沐浴する大物聖者など、非日常的な光景にも度々出くわした。
 うだるような暑さとは裏腹に、河の水温は予想以上に低く、一分も足を浸しているだけでキンキンに冷えてしまう。この刺すような冷たさが浄化を精神的にも増幅させているのだろう。水流もかなり速く、岸のあちこちにはポリス用の救命ゴムボートが配備されていた。ちなみに、私も撮影中に足を滑らせて河に落ちてしまった。幸いながら浸ったのは腰上までで、撮影機材が水没しなかったのがせめてもの救いだった。
 ハリ・キ・パウリーでは、毎日夕方に行われる幻想的なアラティ(礼拝)が感動的に美しく、滞在中に何度も通っていたのだが、立っているだけでメガホンで「座れ!」と怒鳴られるほど係員の眼が厳しかったため、撮影は全く出来なかった。橋上からのショットもすぐに警察官から注意されてしまう。撮影は難しかったが、それでもこの夕方のアラティを観る価値は充分にあると思った。どうしても撮影をしたければ、早い時間に行って一番前の席を確保するか、メディア用のパーミッションを取得して、観客席の後方にある特設のやぐらから撮ることをオススメする。メディアセンターは河の対岸の先にあるようだ。

 沐浴している人々のシーケンスの背後で使用しているマントラは “Hara Hara Mahadeva Shambo”。ハリ・キ・パウリーの対岸のサドゥのテントを取材中に、いきなり乱入してきた聖者くずれの放浪民によるマントラである。渋い声がなかなか魅力的ではないか。なお彼の別のパフォーマンスは、本DVDの特典映像「放浪民のリンガ芸」で堪能できるので是非ご覧いただきたい。
 さてこのマントラだが、Kashi という単語からどうやらバラナシのことを唄っているようであり、さらに Om Ma Ganga(母なるガンガーよ)以降は、別のマントラのようである。オリジナルが存在するのか彼の即興なのかは不明だが、ガンガーを讃えるこの部分が気に入ったので、このハリドワールでの沐浴風景の背景に使ってみた。ちなみにクンブメーラとは「沐浴の大祭」を意味する。

 最後に唱えるのは「ナモー・ナラヤーナ」Namo Narayanaya(万物の主に帰依します)。Namo(Namas の後に “n” が続く場合、サンディ規則により Namo となる)はマントラでよく使われる言葉で、神の御名の前にあるときは「~神に帰依します」という意味となる。仏教では<南無>と音訳されて馴染みのある言葉である。ナーラはサンスクリット語で<水>、アヤナは<住居>を示すので、直訳すれば「水に住まわすナーラーヤナ神に帰依します」となるのだが、ナーラーヤナ神はビシュヌ神の化身であること、はたまたブラフマン神としても捉えられることもあるため、ここでは「万物の主」という対訳にしてみた。ナーラーヤナ神は日本ではナラエンテン(那羅延天)という仏教の神とされている。
 ちなみに Namo や Namas の目的語は必ず与格となる。よって Narayanah(主格)は Narayanaya(与格)となる。

The-Heart-of-Hindu06+

 バッダ・コーナ・アーサナ(合蹠のポーズ)で瞑想をするマノージギリを眺めていたら、人は黙っている時が一番完全な存在なのだと感じさせられた。彼は毎日一時間程の瞑想を日課としているそうだ。さらに友人と一緒に行う時は、二~三時間も深い瞑想になることもあるという。

 そもそも瞑想は読経と同じく、過去や未来という時間を断ち切って「今」だけを味わうためになされる。その時「私」という輪郭は薄まる。
 科学的には、アルファ波さらにはシータ派が出るほどの深い瞑想によって、脳の方向定位連合野(上頭頂葉後部)の血液の流れが著しく低下することで主体と客体の境界線が薄れ、万物の絶対的な合一感といった感覚のみが存在している状態に陥ると言う。瞑想の果てに感じるこのリアリティは「絶対的一者」であり、ギリシャ哲学者のプロティノスの「一者」、禅の「不二」「打成一片」、荘子の「万物斉同」にも通じると言えそうだ。

 この方向定位連合野への情報入力停止を起こすための技術は二通りあって、一つは心からすべての思念(妄想)を追い出そうとするアプローチ(受動的アプローチ)であり、もう一つはマントラや経典の一部を読経することで、心の焦点を絞り込むアプローチ(能動的アプローチ)である。受動的アプローチによって達成される状況を「神秘的合一」と表現し、能動的アプローチによって達成される「絶対的一者」と区別される。前者は宇宙に溶けていくイメージ、後者は神を見るイメージである。
 瞑想においては、および仏教的な瞑想、公案(禅問答の問題)を用いない通常の坐禅は受動的アプローチであり、神やイエスのイメージに集中していくカトリックの瞑想、公案を用いる臨済宗の坐禅の初期状態は能動的アプローチと言えよう。はたしてヒンドゥ的な瞑想はどちらなのだろうか。マントラや経典の一部を読経することから能動的アプローチとも言えるが、サドゥの瞑想は受動的アプローチのように思える。

 瞑想における呼吸法については、西洋では胸式呼吸であり、両手を広げ、胸を大きく開けて行う。東洋では腹式呼吸であり、吐いて、吸って、吐ききったあとに自然に酸素が入るに任せる。インドのヨガは、この胸式と腹式がミックスされた完全呼吸であるようだ。
 最近の日本人が腹式呼吸が出来なくなったのは、正座から椅子に座る生活、便座が洋式に変わったことや、伝統的な日本の茶道、日本舞踊などの芸道や武道にたしなむ機会が減ったことが影響しているとの見方もある。正座は元々神道での神、仏教での仏を拝む時の姿勢であり、古くは古墳時代の正座姿の埴輪が出土されており、江戸時代に日本化された儒学の影響で武士の間に広まり、明治時代の畳、大正時代の座布団の普及により一般の庶民にまで浸透していった。日本以外で正座をする民族は多くはないようだが、ヨガにおけるヴァジラ・アーサナは正座のアーサナであり、イスラム教徒も礼拝時には正座をするし、中国や台湾、韓国でも正座で礼拝する仏教徒もいる。正座が日常的に生活の中に溶け込んでいるのは日本だけと言われているので、腹式呼吸を取り戻すためにも、この希有な日本文化を大切にしていきたいものである。常時正座をするという環境になくとも、正座の概念を拡張して洋式の椅子でも姿勢よく座ることを心がけたいものだ。

The-Heart-of-Hindu05

 冒頭のジャータ(ドレッドヘア)が印象的な少女は、マノージギリの子どもではなく、引き取った孤児だと言う。さらに二人の男児も引き取っているそうだ。通常サドゥは子ども同伴で出家することはないようなので、こういったケースは珍しいのかもしれない。

 「ヨガとヨギは違う」というマノージギリの言葉に少し戸惑った。一般的にヨギはヨガをする人、またはヨガの達人として知られているが、マノージギリはそんな単純な意味では捉えていないようだ。ヨガとは神そのものの境地への到達であり、ヨギとは体内を浄化し、気を通り易くするための健康法としてストレッチをする人々のことを示しているように思える。呼吸法(プラーナーヤーマ)はもとより、食生活や戒律、精神的な面でのストイシズムを伴って、始めてヨガへの道が開かれるといった認識なのではないだろうか。実際マノージギリは、未公開映像でも「ヨガはインドでも数えるくらいしか存在しないんだよ」と語っていた。
 彼が言うところのヨガとは、誰のことを示すのか不明だが、ラーマクリシュナやラーマナ・マハリシのような大物聖者がふと頭を過った。しかしながら、サドゥはこういった著名な聖者には無関心なようであり、実際マノージギリも、大きなアシュラムを所有している宗教ビジネス的な聖者に関しては否定的な見解を示していた。私自身もリシケシュに滞在した時に、商業ヨガセンターと宗教ビジネスが軒を連ねているその佇まいを観て失望したことは否めない。マノージギリが思うところのヨガとは、コミュニティ内で語り継がれているような、一般の人に知られていない伝説的なサドゥのことなのかもしれない。

 そもそもヨガとは、インドでは心身の鍛錬によって肉体を制御し、精神統一して人生究極の目標である「解脱」(モークシャ)に至ろうとする伝統的な宗教的行法のひとつである。その語源は「馬にくびきをかける」という意味の動詞ユジュ Yuj から派生した言葉であり、馬を御するように心身を制御するということを示唆しているようである。ヨガの歴史はかなり古く、インダス文明の時代のモヘンジョ・ダロの遺物からは「瞑想をする行者像」という結跏趺坐をしている印章が出土している。この印章に刻まれた行者はシバ神の象徴とも言われているが、ひょっとしたらサドゥを示してるのかもしれない。(さらなるヨガの詳細は ウィキペディア:ヨーガ にて)

 サドゥが行うハタ・ヨガは、肉体を駆使し深い瞑想の中で行われる動的なヨガであり、マノージギリからも、シールシャ・アーサナ(頭立ちのポーズ)、ロラ・アーサナ(耳飾りのポーズ)、ブルックシャ・アーサナ(立木のポーズ)など様々なアーサナを披露してもらった。体が柔らかく贅肉のない痩身のマノージギリのアーサナは、まるでしなやかな桃の若木のようでもあり、同性から見ても美しいなぁと思えたほどだ。
 ハタの「ハ」は太陽そして男性エネルギーを、「タ」は月そして女性的エネルギーを意味しており、エネルギーの気道をあらわしている。この陽と陰との考え方が東洋的な思想そのものであり、中国の『易経』では「元気」はまず陰と陽に別れると説いているし、韓国の国旗には、この陰と陽のうねりを描いた「太極」(たいきょく)という図が描かれている。西洋では陰陽の考えを持たなかったので、あらゆるものを作り出したのは創造主である絶対神だと考えられているのに対して、陰陽によってすべてが生み出されると考える東洋思想には、そもそも創造神に当たるものが必要ないのだ。

 さてこのハタ・ヨガでは、ヒンドゥの持つ人体の不浄を浄めるための行法がいくつもあり、一六~一七世紀にスヴァートマーラーマが著した『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』という、一三世紀にゴーラクナートが大成したハタ・ヨガを体系的に解説した実践書には、身体の浄化をもたらす秘法として「六つの行法」が挙げられている。
 例えば「ネーティ」は柔らかな紐を一方の鼻腔から口腔に通し、ひもの両側を持って静かにしごく。次にもう一方の鼻腔で同じことを繰り返す。これは頭の中をしずめ、霊的な直観を与えるのに有効な行法である。「トラータカ」は、まばたきをせず、心をしずめ、微小な標的を涙が出るまでじっと凝視する行法で、眼の諸病を無くし、怠惰等を封じるという効果がある。さらに腹筋を使って消化をよくする「ナーウリ」(布を飲み込んで胃を清掃する「ダーウティ」、水中で肛門に竹筒を挿入して腸内を洗浄する「ヴァスティ」も併用)、速い呼吸を繰り返して頭をすっきりさせる「カパーラ・バーティ」があるが、極めつけは水中で肛門から大腸を引き出し、洗浄をした上でふたたび体内に戻すという「バヒシュ・クリタ」。この行法の修得には経験豊かなグルのもとでも八年はかかるという。

 さらにハタ・ヨガの中の一つクンダリーニヨガは、尾骨のムーラーダーラ・チャクラに眠っている宇宙エネルギーのクンダリーニを目覚めさせ、そのエネルギーが頭頂のハスラーラ・チャクラを押し開けた時に、最高の歓喜と至福の境地である「解脱」を体験するとされるヨガなのだが、本DVDの特典映像の『マノージギリ:セックスとクンダリーニの関係』でも触れられているので、是非ご覧いただきたい。
 解脱とは、ヒンドゥ教においては輪廻転生の鎖から解放されることであり、そのためには「知識」による解脱が必要とされる。ここで言う知識とは世間的な知識ではなく、魂の永遠性をはっきりと認識すること、つまり絶対者とひとつであるような自分の本質をはっきりと認識することである(特典映像でのマノージギリは、この知識を "knowledge" と英訳しているが "wisdom" の方が相応しいように思う)。古代インドのヴェーダの思想では、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と、自己の中心であるアートマン(我)の合一のことであり、「梵我一如」と言われる。この知識の道(ジュニャーナ・マールガ)に加え、行為の道(カルマ・マールガ)、信仰の道(バクティ・マールガ)も解脱への道であるが、知識によって輪廻の束縛から解放されるという考え方は、キリスト教などの一神教とは根本的に異なる思想である。
 中国の道教でもクンダリーニヨガに相当する修行がある。自然界の「精」を体内に取り入れて、それを「気」として整えて行く。体の中、たとえば下腹部の丹田といわれる辺りに「胎」を宿し、そのエネルギーを「気」で整え、頭頂の「天門」から出すという「出神」がそれに当たる。
 
 映像前半のオーム・ナマシヴァヤの唄と後半のガヤトリー・マントラは、マノージギリ自身によるパフォーマンスである。
 ガヤトリー・マントラ Gayatri Mantra (サヴィトリ讃歌)は数あるマントラの中でも特に重要なマントラである。ガヤトリーというのは、各行八音節からなる三行詩のことであり、とくに『リグ・ヴェーダ』全讃歌の精髄とみなされるこのサヴィトリ讃歌は遍(あまね)く世に光と熱を送って万物を「刺激・鼓舞する」太陽エネルギーを神格化したサヴィトリ神を称え、その加護を祈るマントラである。今回収録してきたマントラの中でも、このガヤトリー・マントラは特に音楽的にも美しく、ゆったりとした抑揚が心地よく、さらに自分で唱えると頭蓋骨が共鳴して気持ちがよいことこの上ない。ヴェーダのもっとも聖なる句と言われていることに大いに納得。翻訳は英訳されたものを参考にして、オリジナルを逸脱しない程度に意訳してみた。

The-Heart-of-Hindu04

 ハシシは大麻の花穂や葉から取れる樹液を圧縮して固形状の樹脂にした大麻樹脂のことであり、手もみによって作られるものをチャラスと言う。単に大麻の花穂や葉を乾燥させた乾燥大麻をマリファナと呼び、インドではガンジャと呼ばれている(さらに詳細は ウィキペディア:大麻 にて)。
 マノージギリが手にする棒状のチャラスは、通常のマーケットでは入手はできず、サドゥのテント村周辺に屯している密売人から入手している。このチャラスを市販のタバコの葉と混ぜて吸引していた。

 日本では戦後のGHQの政策で法律に大麻栽培の罰則が設けられ、大麻の吸引、所持、販売は違法行為とされており、インドでも八十年代に法律で禁止とされたが、サドゥの大麻喫煙に関しては暗黙の了解という雰囲気が漂っている。古代インドの時代では宗教的な権威者が大麻を宗教上の儀式に用いて、聖職者だけがそれを利用することが出来たという。サドゥがチャラスやガンジャを服用するのは、シャーマニズムの影響からとも言われるが、このような特権の名残もあるのかもしれない。
 ちなみに幻覚性植物を聖なる植物とし、信仰の対象にしている宗教や民族は世界各地で多くみられる。宗教においては、とげのない小さなサボテンのペヨーテを用いる米国ネイティブ・アメリカン・チャーチ、ブラジルのアヤワスカを使うカトリック系教会、サドゥと同じく大麻を用いるジャマイカのラスタファリズムなどが挙げられ、シャーマニズムにおいても、メキシコのマサテク族のマジックマッシュルーム、アンデス地方のサンペドロ・サボテン、西アフリカのイボガ、シベリアのベニテングタケなどの幻覚性植物が儀式において用いられる。また民族においては、コロンビアやペルー、ボリビアに住む先住民インディオや労働者が、コカインの原料であるコカの葉を興奮剤として日常的に服用していたり、東南アジア、東アフリカ、中東でも、興奮作用のある植物を嗜好品として摂取する習慣がある。ケシ(芥子)栽培をするタイ北部やラオスに住む少数民族の中には、あへん中毒に陥っている者も少なくないと言う。

 ソフトドラッグの善悪は、所属するコミュニティの都合に左右されており、絶対的な価値基準はない。オランダのようにハードドラッグへの流出対策としてソフトドラッグを合法化している国もあれば、医療大麻の合法化を打ち出す国も増えており、さらに前述したように、民族や宗教的イデオロギーが伴えば善ともなる。結局は自己の価値判断に委ねられる事柄なのだ。
 断っておきたいのは、本チャプターは大麻の吸引を推奨する目的ではなく、サドゥの生活風俗を紹介する目的で制作したのである。本映像に感化され大麻吸引を試してみたところで、経典の重さや厳格な修行、ヒンドゥそしてサドゥであることの切実さが伴わなければ、結局は上っ面をかすめるだけの戯れ事に過ぎないであろう。
 多くのサドゥは肉を食せず、アルコールを口にせず、性欲も昇華している。唯一の嗜好品がハシシであり、彼らにとってのハシシ喫煙は、単なるファッションや現実逃避という薄っぺらな意味ではなく、瞑想やヨガと同じベクトル上にあり、神との対話のためのひとつの手段でもある。一見退廃的に見えるこの光景ではあるが、そこには聖なるものに直結する、ある種の厳格なストイシズムが存在しているように思えるのだ。

 時空を越えたさらなるディープな宗教的体験を得たいがために、LSDやヘロインなどのハードドラッグに手を染める者もいるようだが、果たしてそれは宗教的な「道」と言えるものなのか疑問が残る。結果に重きを置く西洋合理主義の視点だけで東洋思想を解釈しようとする風潮に、どこか違和感を覚えてしまう。近年ネオ・ヒッピーやトラヴェラーと呼ばれる新世代のヒッピーも出現しているが、彼らも東洋思想をファッションとして取り入れているだけに過ぎず、六〇、七〇年代のムーブメントの焼き直しといった感が強い。彼らを題材とした映画や音楽の行く末が、「破壊」や「自滅」を示唆しているものが多いことからもそれが伺える。聖なる領域はデカダンとストイシズムのギリギリの境界線上に存在し、収まりどころがなかなか難しいものなのかもしれない。
 ハードドラッグによる薬物の服用で意識を変性させることと、観想瞑想などのストイックな修行により脳内物質の分泌を活性化させて意識を変性させることが、結果として同じ到達地点であったとしても、後者の方法で自力で到達することそのものに価値があるように思える。人生は結果そのものよりも「過程」こそが重要だと思うのだ。過程を経ずして安易に到達した場所で、果たして精神的な安寧が得られるものなのだろうか。果たして仏陀だったらどちらの道を選んだであろうか。
 サドゥたちがハードドラッグにまで手を出さないのは、それによる擬似的な神秘的体験を望んでいないからだと思われる。彼らにとっての真なる神秘的体験とは、修行によるストイシズムの中で到達すべき「道」、すなわち「知識による道」(ジュニャーナ・マールガ)、「行為による道」(カルマ・マールガ)、「信愛の道」(バクティ・マールガ)の三つの道から、最高実在であるブラフマンに到達することで得られるという認識ではないだろうか。そしてハシシなどのソフトドラッグは、コミュニティ内の結束を強めるためだったり、「自分がほどける」「我を薄める」ための手段であって、むしろアルコールを摂取することを堕落と考えているようだ。
 
 マノージギリが喫煙の小道具を喩えるシーンで、チラム(吸引パイプ)を比喩する “Mother” の訳に戸惑った。「お袋」と「女神」を候補に挙げたが、結局両者の組み合せで対処した。当方のヒンディやサンスクリットの語学力が乏しかったり、マノージギリの英語で聞き取り辛いものがあったりで、他に翻訳を見送った箇所が多少あることをお許し頂きたい。

 挿入曲は自作のインストゥルメンタル。楽器および制作環境を一新した影響もあって、欲しい音を瞬時に作れなくなってもどかしかったが、まぁ妖艶な雰囲気は出せただろうか。


The-Heart-of-Hindu03

 シバリンガ(女性器の象徴ヨーニと、男性器の象徴リンガが結合している状態の神体)に熱心に祈る信者たちを背景に、読経のシーンが始まる。インドではマントラやギーターをごちゃ混ぜにしたコピー経典が多く流通しているようなので、彼が読経している経典は特定ができなかったが、ヒンドゥ教にはサンヒターやブラーフマナ、アーラニヤカ、ウパニシャッドなど、バラモン教の時代以前から伝わってきた歴史あるヴェーダ聖典が色々ある。リンガ信仰は子孫繁栄や生産力、豊饒、さらに宇宙を創造する活動力をもたらすとされ、本来は土着信仰であったものをヒンドゥ教に取り入れられ、創造や破壊を司るシバ神や、シバ神の持つ力の象徴とされた。
 
 信者の力強く明朗な読経にしばらく耳を傾けてみると、まるで良質の音楽を聴いているかのような心地よいゆらぎに包まれる。聴き手からしてそうなのだから、読経している本人はさらに心地よい境地なのだろう。
 ひとつの考え方として、経典はその意味が分からずに読んだ方が心地よいゆらぎが出やすいという。例えばサンスクリット経典の訳経において、鳩摩羅什と玄奘三蔵の訳を比較してみると、鳩摩羅什の旧訳は言葉そのものの意味よりも中国語の音韻に対する配慮がなされていて、音として心地よいリズムが出て読み易いとされている。一方の玄奘三蔵の訳は、原著の意味に正確であるあまりに音韻への配慮が少し足りないと言われている。「韻」を踏んだ文字を「暗記」して読むことでリズムが感じられるようになり、それが左脳ではなく右脳で処理されることでアルファ波が出て心地よさが生まれる。この心地よさが「響き」となり、安らかな心身状態をもたらす。そしてこの体内の響きが外部とのコミュニケーションで共振した時、そこに「慈愛」が発現するのだという。
 経典だけでなく唄を唄う場合でも、ハミングの方がアルファ波が出やすいと言う。歌詞を追いながら唄うと意味を考えてしまいがちで、気持ち良さの具合が薄れるようだ。
 私自身も幼少の頃、敬虔な仏教徒である父親の横で経典を読経をするのが楽しみのひとつだった。もちろん意味も分からずに南無妙法蓮華経を唱えていたに過ぎないのだが、子どもながらにそのリズムの心地よさを感じていたのだろう。この幼児期の原体験が、その後ジャンルに拘らずに音楽を嗜好するきっかけにもなったのかもしれない。今でも私は音楽の歌詞の意味をなぞるよりも、メロディやリズムそのものに溶け込むような聴き方が好きなようだ。

 仏教におけるダーラニー(陀羅尼)は貝葉(ばいよう。植物の葉に描かれた経典)のサンスクリット語原文を漢字に音写したものであり、例えば般若心経の最後の部分「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」では、ことばの意味を理解するより暗記して繰り返し唱えることで、無念無想の境地に至ることを目的としている。この部分(さらには般若心経自体)は呪文となっており、サンスクリット語原文でも正確な意味は分かっておらず(一説には、此岸から彼岸へと渡った者の祝福のことばとされる)、貝葉と玄奘三蔵の漢訳を比べても結構な違いがあるようだ(参考サイト:貝葉に見る般若心経の秘密)。さらに経典の冒頭の「度一切苦厄」(すべての苦しみや災厄を克服した)に相当する文章は原典にはなく、玄奘三蔵が付け加えたものである。意味が分からないまま呪文として切実に唱えることによって「空」を体感し、般若波羅密(智慧の完成)すなわち仏のものさしを知るのである。
 ダーラニーは「ア」「ウ」「オ」の三母音にアクセントがかかるように作ってあり、「ア」は人の気持ちを明るくし、「ウ」は人の思考を促し、「オ」は目に見えない物を信じる力を養う偉大な音(オームもそうだね)であるという。インドの経典の音韻に対する配慮が伺える。
 またインドの経典は現在完了形で書かれているという。「~でありますように」という願望で祈るよりも、「~した」という現在完了形で完結させるほうが、大脳皮質が反応し易くなり実際に効力があるそうだ。上記の般若心経でも「薩婆訶」(そわか)は「成就した」と現在完了形で書かれてある。

 そもそも読経(後のチャピター06でも触れるが、さらに瞑想も)することは、過去や未来という時間を断ち切って「今」だけを味わうためになされる。「今」に居続ける。自分がほどける。「私」の輪郭が薄まる。仏教や禅でも重要とされているこのニュートラルな状態こそが、苦しみが滅尽された境地なのである。

The-Heart-of-Hindu02

 鼻っぱしの強そうな者から、穏やかな表情をしている者まで、サドゥの世界も色々なタイプの人で溢れている。滞在中に印象に残ったナガババたちをポートレイト風に編集してみた。ちなみにババとは日常的には<旦那>や<父さん>の意味として用いられるが、<サドゥ>のことも指す。敬称「ジー」をつけて、ババジーと呼びかけることが多い。

 長いジャータ Jata(ドレッドヘア)が印象的なマハーント・ラメーシュギリ・ババと彼のファミリー。見るからに鼻っぱしが強そうだが、実際もその印象通りだった。ホンダのバイクを乗り回すワイルド系チョイ悪サドゥ。撮影中にカメラの交換レンズをせがまれたり、過って不浄な左手で物を手渡そうとして激怒されたこともあり、かなりの気分屋で感情の赴くまま奔放に暮らしている感じだった。本編には入れなかったが、瞑想の手引き書を声に出して朗読する姿は微笑ましく、さらに教師に引率された大勢の小学生に囲まれて拝まれている姿を見て、インドでの聖者の影響力をまざまざと感じさせられた。

 シヴァの三つのシャクティ<意思、行動、智慧>をあらわすトリシューラ(三叉戟)の映像の後に続くのが、渋い雰囲気のアマルギリ・ババ。ハリドワールでの撮影初日、一番最初に出会った記念すべきババジーである。ハシシが利いているせいか、とにかく動作が超スロー。ひとつの所作が終わるのに普通の人の数倍の時間がかかっていた。喫煙で荒れた喉に良いかと思いプレゼントした龍角散のど飴をたいそう気に入ってくれたようで、滞在中会う度に何度もねだられてしまった。モペット(原動機付きバイク)でインド中を旅していて、落車事故による太股の内側の生々しい傷跡が今でも記憶に残っている。

 太鼓とグル(導師)のポスター写真の映像の次は、雄大な髭が印象的なマハント・プレームギリ・ババと彼のファミリー。英語が全く通じずコミュニケーションが難しかったが、父性溢れる優しいサドゥたちだった。指輪のアップの映像になぜか大ウケしていた。
 
 ルドラクシャ(菩提樹の実)のオブジェの映像の後に続くのが、アナンド・マチューラ・バルティ・ババ。河の風景を撮影している時に、チェーラ(弟子)に声をかけられて彼らのテントに招待された。このババは柔和な表情と温和な性格で模範的サドゥといった印象だった。チェーラの数も多く大所帯だったので大物サドゥなのかもしれない。カメラを被写体に向ける度に皆が一斉にマントラを唱えるといった、一種異様な雰囲気の中で撮影は行われた。
 滞在の早い時期、すでに私はマノージギリのファミリーとして迎えられていて、その印としてルドラクシャ(菩提樹の実)のペンダントとネックレスを授かっていたのだが、このマチューラのテントでも「おまえは我々のファミリーだ」と宣言され、ペンダントについていた大粒のルドラクシャを勝手に交換されてしまった。後でマノージギリに相談してみたが、大した問題ではないようだ。サドゥも市井のインド人と同様、いつもノープロブレム。この緩さが心地よい。

 登山用のヘッドライトを装着し、虎の皮を身にまとっているのはガジェンダルギリ・ババ。外見からちょっと怖そうで近寄り難い印象があったが、カメラを向けるとトングを使って剽軽な仕草をしてくれた。

 最後はデュニ(囲炉裏)の煙の背後で、悠然と佇んでいる妖しい雰囲気の仙人系サドゥ、スンダールギリ・ババ。ジョードプルから来ているとのこと。非常に穏やかな人で、自分が思い描いていたイメージに最も近いサドゥ。

 挿入曲は自作のインストゥルメンタル。サドゥも愛するボブ・マーリーのようなレゲエ風にするつもりだったが、映像との絡み具合が好みの質感にならなかったので、R&B風テイストに変更。ワウペダルは二十年前に買ったコルグの再発 VOX V847(米国製)。それ以前の学生時代に愛用していたクライベイビー(イタリア製)に比べるとジェントルな音。ここ数年来所有物をとにかく減らしており、ギター関連の機材も相当数手放して、二十本程度所有していたエレキギターも結局テレキャス一本だけにした。音制作に関してはインプットをなるべくシンプルにして、編集で追い込むワークフローにしている。

The-Heart-of-Hindu01

 ナガサドゥのマノージギリ・ババが体に灰を塗るシーンで、本作は幕を開ける。

 サドゥとは世俗を捨てた苦行修行者のことであり、血縁や土地のしがらみや、浄・不浄の観念からさえも完全に解放された自由人である。ヒマラヤのような深山幽谷に隠遁する者もいれば、バラナシなどの聖地をついの住処とする者、各地の聖地を巡りながら気の向くまま放浪を繰り返す者などその生き様もさまざまである。
 いくつかの宗派があり、シャイヴァ派(以下、シバ派)、ヴァイシュナヴァ派(以下、ビシュヌ派)、さらに肉食(馬肉除く)ときに人肉すら食すタントラ系のアゴール派のアゴーリなどが挙げられる。一般的には額に描かれた文様で宗派が区別され、横三本ならシバ派、縦線系ならビシュヌ派、さらにマノージギリによると、ビシュヌ派でも両端の縦線の下側が外に向かって釣り針のようなセリフがついているのがシータラム(シータラーマ)だという。しかしながらマノージギリはナガサドゥながら円形のビンディだったし、出会ったサドゥの誰もが文様をつけている訳でもなかったので、さらに細かな区別があるのかもしれない。本作『ヒンドゥのこころ』に出演している多くは、シバ派の最大宗派ナガサドゥと思われる。
 マノージギリも旅生活をするサドゥである。クンブメーラ期間中はハリドワールで過ごし、その後はアジャンタやエローラへ行き、冬にラジャスタンの自分のアシュラムに戻り、さらにバラナシに向かうのだと言っていた。旅の移動手段は車やバイク、鉄道、徒歩など、サドゥによってさまざま。とあるサドゥのテントではピカピカの真っ赤なジープを所有していた。聞けば市井の人からのドネイションを貯めて購入したのだという。

 古代インドの思想では、人生を、学生期、家住期、林住期、遊行期の四住期に分け(アーシュラマ)、一般的にサドゥはその遊行期に出家するとされている。しかしこの思想はヒンドゥ教のヴァルナの上位三階層、すなわちバラモン、クシャトリア、バイシャの階層において適用される思想であり、また義務と言うよりは人生の理想的なモデルとして提示されたものに過ぎず、低カーストやアウトカーストの者が若い時代からサドゥになるケースもあるようだ。実際マノージギリは若く見えたし、サドゥ界に入るまでジャングルで過ごしていたようなので、アウトカースト出身ではないかと察せられる。

 このマノージという名は、猿神ハヌマンの別名で疾風の意を持つ「マノージャヴァヤ」Manojavaya から採られたものだ。沈着冷静で悠然と構えているサドゥが多い中、マノージギリはその名の如く、いつも飄々としていて、フットワークも軽く、エネルギッシュで疲れ知らずの自然児であり、老子思想の「無為自然」を思い出さずにはいられなかった。古代インドの大長編叙事詩『ラーマーヤナ』で、ハヌマン神はラーマ王子と共にシータ姫を助ける戦士や弁舌家とされており、この弁舌家という側面も、マノージギリがハヌマン神と繋がっていると感じさせられた一面だ。

 さて映像の冒頭でマノージギリが体に塗っているのは、ビィブーティと呼ばれる聖なる灰である。素っ裸で灰を塗るのはナガサドゥの特徴である。仲間が集うデュニ Dhuni(囲炉裏)の灰を塗っているのかと思いきや、市販のパッケージ品を愛用していたのが意外だった。なお今回のDVD作品の特典として添付しているビィブーティの小袋は、彼とガネーシャギリ・ババが実際に使っていたデュニからお裾分けしてもらったもので、大変貴重な一品である。デュニの灰は市井の人がサドゥに謁見する際、サドゥから額に印を授かる時に用いられるのだ。

 マントラの呟きの合間に聞こえるナマシヴァヤ Nama Shivaya は、直訳すれば「シバ神に帰依いたします」という意味だが、状況により多様な意味を含むことばである。日常的な挨拶ひとつを挙げても、今回滞在したハリドワールやリシケシュでは定番のナマステやナマスカールよりも、ハリ・オームやオーム・ナマシヴァヤの方が多く使われていた。ハリドワールという地名は、<ビシュヌ神>を示すハリ Hari と<門>や<入口>を示すドワール Dwar との合成語であるが、シバ神信仰の人は<シバ神>を示すハル Har(Haraも同義)を用いて、ハルドワールとも呼ぶ。


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