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The-Heart-of-Hindu01

 ナガサドゥのマノージギリ・ババが体に灰を塗るシーンで、本作は幕を開ける。

 サドゥとは世俗を捨てた苦行修行者のことであり、血縁や土地のしがらみや、浄・不浄の観念からさえも完全に解放された自由人である。ヒマラヤのような深山幽谷に隠遁する者もいれば、バラナシなどの聖地をついの住処とする者、各地の聖地を巡りながら気の向くまま放浪を繰り返す者などその生き様もさまざまである。
 いくつかの宗派があり、シャイヴァ派(以下、シバ派)、ヴァイシュナヴァ派(以下、ビシュヌ派)、さらに肉食(馬肉除く)ときに人肉すら食すタントラ系のアゴール派のアゴーリなどが挙げられる。一般的には額に描かれた文様で宗派が区別され、横三本ならシバ派、縦線系ならビシュヌ派、さらにマノージギリによると、ビシュヌ派でも両端の縦線の下側が外に向かって釣り針のようなセリフがついているのがシータラム(シータラーマ)だという。しかしながらマノージギリはナガサドゥながら円形のビンディだったし、出会ったサドゥの誰もが文様をつけている訳でもなかったので、さらに細かな区別があるのかもしれない。本作『ヒンドゥのこころ』に出演している多くは、シバ派の最大宗派ナガサドゥと思われる。
 マノージギリも旅生活をするサドゥである。クンブメーラ期間中はハリドワールで過ごし、その後はアジャンタやエローラへ行き、冬にラジャスタンの自分のアシュラムに戻り、さらにバラナシに向かうのだと言っていた。旅の移動手段は車やバイク、鉄道、徒歩など、サドゥによってさまざま。とあるサドゥのテントではピカピカの真っ赤なジープを所有していた。聞けば市井の人からのドネイションを貯めて購入したのだという。

 古代インドの思想では、人生を、学生期、家住期、林住期、遊行期の四住期に分け(アーシュラマ)、一般的にサドゥはその遊行期に出家するとされている。しかしこの思想はヒンドゥ教のヴァルナの上位三階層、すなわちバラモン、クシャトリア、バイシャの階層において適用される思想であり、また義務と言うよりは人生の理想的なモデルとして提示されたものに過ぎず、低カーストやアウトカーストの者が若い時代からサドゥになるケースもあるようだ。実際マノージギリは若く見えたし、サドゥ界に入るまでジャングルで過ごしていたようなので、アウトカースト出身ではないかと察せられる。

 このマノージという名は、猿神ハヌマンの別名で疾風の意を持つ「マノージャヴァヤ」Manojavaya から採られたものだ。沈着冷静で悠然と構えているサドゥが多い中、マノージギリはその名の如く、いつも飄々としていて、フットワークも軽く、エネルギッシュで疲れ知らずの自然児であり、老子思想の「無為自然」を思い出さずにはいられなかった。古代インドの大長編叙事詩『ラーマーヤナ』で、ハヌマン神はラーマ王子と共にシータ姫を助ける戦士や弁舌家とされており、この弁舌家という側面も、マノージギリがハヌマン神と繋がっていると感じさせられた一面だ。

 さて映像の冒頭でマノージギリが体に塗っているのは、ビィブーティと呼ばれる聖なる灰である。素っ裸で灰を塗るのはナガサドゥの特徴である。仲間が集うデュニ Dhuni(囲炉裏)の灰を塗っているのかと思いきや、市販のパッケージ品を愛用していたのが意外だった。なお今回のDVD作品の特典として添付しているビィブーティの小袋は、彼とガネーシャギリ・ババが実際に使っていたデュニからお裾分けしてもらったもので、大変貴重な一品である。デュニの灰は市井の人がサドゥに謁見する際、サドゥから額に印を授かる時に用いられるのだ。

 マントラの呟きの合間に聞こえるナマシヴァヤ Nama Shivaya は、直訳すれば「シバ神に帰依いたします」という意味だが、状況により多様な意味を含むことばである。日常的な挨拶ひとつを挙げても、今回滞在したハリドワールやリシケシュでは定番のナマステやナマスカールよりも、ハリ・オームやオーム・ナマシヴァヤの方が多く使われていた。ハリドワールという地名は、<ビシュヌ神>を示すハリ Hari と<門>や<入口>を示すドワール Dwar との合成語であるが、シバ神信仰の人は<シバ神>を示すハル Har(Haraも同義)を用いて、ハルドワールとも呼ぶ。


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