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The-Heart-of-Hindu06+

 バッダ・コーナ・アーサナ(合蹠のポーズ)で瞑想をするマノージギリを眺めていたら、人は黙っている時が一番完全な存在なのだと感じさせられた。彼は毎日一時間程の瞑想を日課としているそうだ。さらに友人と一緒に行う時は、二~三時間も深い瞑想になることもあるという。

 そもそも瞑想は読経と同じく、過去や未来という時間を断ち切って「今」だけを味わうためになされる。その時「私」という輪郭は薄まる。
 科学的には、アルファ波さらにはシータ派が出るほどの深い瞑想によって、脳の方向定位連合野(上頭頂葉後部)の血液の流れが著しく低下することで主体と客体の境界線が薄れ、万物の絶対的な合一感といった感覚のみが存在している状態に陥ると言う。瞑想の果てに感じるこのリアリティは「絶対的一者」であり、ギリシャ哲学者のプロティノスの「一者」、禅の「不二」「打成一片」、荘子の「万物斉同」にも通じると言えそうだ。

 この方向定位連合野への情報入力停止を起こすための技術は二通りあって、一つは心からすべての思念(妄想)を追い出そうとするアプローチ(受動的アプローチ)であり、もう一つはマントラや経典の一部を読経することで、心の焦点を絞り込むアプローチ(能動的アプローチ)である。受動的アプローチによって達成される状況を「神秘的合一」と表現し、能動的アプローチによって達成される「絶対的一者」と区別される。前者は宇宙に溶けていくイメージ、後者は神を見るイメージである。
 瞑想においては、および仏教的な瞑想、公案(禅問答の問題)を用いない通常の坐禅は受動的アプローチであり、神やイエスのイメージに集中していくカトリックの瞑想、公案を用いる臨済宗の坐禅の初期状態は能動的アプローチと言えよう。はたしてヒンドゥ的な瞑想はどちらなのだろうか。マントラや経典の一部を読経することから能動的アプローチとも言えるが、サドゥの瞑想は受動的アプローチのように思える。

 瞑想における呼吸法については、西洋では胸式呼吸であり、両手を広げ、胸を大きく開けて行う。東洋では腹式呼吸であり、吐いて、吸って、吐ききったあとに自然に酸素が入るに任せる。インドのヨガは、この胸式と腹式がミックスされた完全呼吸であるようだ。
 最近の日本人が腹式呼吸が出来なくなったのは、正座から椅子に座る生活、便座が洋式に変わったことや、伝統的な日本の茶道、日本舞踊などの芸道や武道にたしなむ機会が減ったことが影響しているとの見方もある。正座は元々神道での神、仏教での仏を拝む時の姿勢であり、古くは古墳時代の正座姿の埴輪が出土されており、江戸時代に日本化された儒学の影響で武士の間に広まり、明治時代の畳、大正時代の座布団の普及により一般の庶民にまで浸透していった。日本以外で正座をする民族は多くはないようだが、ヨガにおけるヴァジラ・アーサナは正座のアーサナであり、イスラム教徒も礼拝時には正座をするし、中国や台湾、韓国でも正座で礼拝する仏教徒もいる。正座が日常的に生活の中に溶け込んでいるのは日本だけと言われているので、腹式呼吸を取り戻すためにも、この希有な日本文化を大切にしていきたいものである。常時正座をするという環境になくとも、正座の概念を拡張して洋式の椅子でも姿勢よく座ることを心がけたいものだ。


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