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The-Heart-of-Hindu18

 ソーハム so'ham はサンスクリット語で、「彼は我なり」と訳される。<彼が>を示すサハ sah. と<我が>を示すアハム ahamの合成語サハ・アハムの連声形がソーハムとなる。つまり仏教や禅でもお馴染みの「自分と他人との境界がない境地」のことである。これが日本語の「そうなんだ」と同義語であるというのは、少し飛躍しているとも感じたが、韻を含めて感覚的に表現したかったのだろう。ソーハムの意味に「そうだったのか・・・」と心から感銘するといった雰囲気は伝わってくる。
 本チャピターの 48'56" で、ヒンディー語と英語のチャンポンで "Ham hai show aap." (私たちはあなたたちを示す)と言っているように聞こえるが、「私」=「あなた」=「彼(女)」と、みんなが繋がっていることを比喩したと思われる。「我に拘りすぎない」こと、すなわち、漱石が理想とした「則天去私」や、般若心経の「心無罣礙」(しんむけいげ)といった境地は、ここ最近の自分の重要な人生のテーマでもあり、そんな想いを込めた作品『サウダーデ ~ ペソアを偲ぶリスボン』を制作した直後の渡印でもあったので、マノージギリの話はタイムリーに心に響いた。

 マノージギリの言うように「みんな同じ人間なんだ」という理念を貫いて生きていけるのなら、どんなに人生が美しいものになるだろう。ところが現実はさもあらん、世界各地では相変わらず宗教間や民族間、経済システム間での諍いが絶えないのはもとより、ほんの小さなコミュニティですら、他者とのちょっとした違いを受容するどころか、差別したり、支配下に置こうとしたり、言葉で張り合ったり、誹謗中傷で憂さを晴らしたりと、利己心から他者と自分との関係を遮断してしまうことが、日常茶飯に溢れている。
 そもそも人間のヒトゲノム(全DNA情報)の九九.九パーセントは同じ配列であり、わずか〇.一パーセントだけの違いの中で、みんな日々汲々と暮らしているに過ぎないことを思えば、ちょっとした違いだけで優劣をつけたり、レッテルを貼ったりすることは滑稽にすら思えてくる。ソーハムのことを、禅では「乾坤只一人」(けんこんただいちにん)と置き換えられ、さらにはアインシュタインも「人間は、私たちが宇宙と呼ぶ全体の一部である。時間と空間に限定づけられた一部である。人間は、自分自身、自分の思考や感情を他のものから分離した何ものかとして経験するが、それは一種の、意識の錯覚である」と同じようなことを語っている。
 実際に苦手な人に対面した時や、理不尽に卑下された時などに、慈悲のこころを持って相手に接することは困難なことだが、その難題に対峙する気持ちこそが、救いの道に繋がるのだと信じたい。さらには妙観察知(同じであると見ながら違う、違うと見ながら同じであるという、微妙な観察ができる智慧)という眼差しを持つことができれば、より善く美しく生きられることだろう。

 女性は脳梁(右脳と左脳の橋渡しの部分)が男性よりも太いため、主体と客体の区別が付きにくいと言われており、ソーハムの思想は男性よりもむしろ女性の方が受け入れ易いように思う。男性社会では、異質な者に出会うと自分の支配に置こうとするが、女性社会では円満に受け入れようとする。女性は自分の体内に子どもを、しかも自分と血液型の違う子どもですら体内で育んでしまう能力を持っているのだから、この受容体質は女性の本能的なものなのだろう。(【2014.4.17 追記】脳梁の太さについては、男女差なしとする見解もあり、確証した結論はまだ得られていない。)

 サドゥは男性原理と女性原理が融合した両性具有な存在であるからこそ、このソーハムの思想を理念としてだけでなく実践することができるのだろう。自由競争社会という男性社会で生きている我々こそ、この女性原理を意識することが大切だと思う。それには「芸術」の持つ創造的なパワーを必要とすると言ってもいいだろう。切実な表現者は、精神的側面で両性具有な存在であるからだ。

 またソーハムと関連して、サットサング Satsang という教えもヒンドゥ教では重要である。皆で分かち合いをすることを意味し、サットは「真理」を、サングは「仲間との関わり」をそれぞれ示す。サンスクリット語ではサットサンガ、テルグ語ではサットサンガムとも言われる。サットサングとは人同士だけでなく神との交わりをも意味し、人の中に神性を見る霊性修行の場でもある。次のチャピター19で紹介する宗教音楽のバジャンも、サットサングのひとつと言えよう。

 こちらがヒンディをほとんど話せないため、今回の取材は英語でのコミニケーションに頼らざるを得なかったので、マノージギリとの対話も深いレベルにまで到達出来なかったのかもしれないが、サドゥ自身が語るからこそシンプルなことばの中に説得力が宿っていると思う。時に啓蒙的・宗教的なことばは、書籍の活字で触れただけでは頭だけで理解しがちになってしまうが、生身のサドゥと膝を交えて語り合えば、深くこころにまで浸透する。


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