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spanish guitar session - Granada, Spain from "One Step Beyond"

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(映像:映像作品「One Step Beyond」グラナダ編より(悪状況での撮影のため、映像が暗い点はご了承ください)。アルハンブラ宮殿を一望できるサン・ニコラス展望台で、二本のスパニッシュ・ギターによる演奏に出くわした。8ビートのポップで即興的な演奏(パコ・デ・ルシアの「Rio Ancho」を引用していると思われる)だが、二人の観客の打つティエンポ(表拍)とコントラティエンポ(裏拍)のパルマスのコンビネーションは、シンプルな楽曲を立体的に彩っていた。フラメンコのバイレ(踊り)はマドリーで実際に観たことがあるが、コンパス(リズム・サイクル)のアクセントが複雑で、練習なしでいきなりパルマスを合わせることは難しい(※1))



 フラメンコは、インドの源流でカタックやグーマー、カルベリアという原液を注がれ、アラブのフィルターを通して、十八世紀にアンダルシア地方の音楽とジプシー音楽が融合して完成されたとは言えないだろうか。

 フラメンコにおけるアラブのフィルター(※2)とは手拍子にあるように思う。手拍子を打って民謡を歌うという行為は、我々日本人に取っては珍しくないが世界的に見ればそれほど多いわけではなく、古代エジプトにその習慣があったとされている。
 エジプトでは手拍子のことを「タスフィーク」と呼び、指をわずかに開いたままで手を打つこともあれば、両手を上下ないし左右の方向に打ち合わせたりと、さまざまなタイプがある。一般に強拍節を強調するヨーロッパのリズムとは異なり、タスフィークは複雑なリズム構造が特徴的である。それは休符が弱拍節を生ぜしめ、時には柔軟で感動的なポリリズムを形成するリズム構造である。このアクセントを作り出すのはテンポと音色の交換であり、その力と色彩を付与するために旋律をある程度重ね合わせるという方法が取られている(※3)。また小泉文夫氏によると、エジプトのハマーム村ではカファーファ Kafafa という民謡が歌われており、男たちが大勢集まって太鼓に合わせて激しくタスフィークを打ちながら歌うとされる(【09.8.3追記】参考音源:Celestial HarmoniesレーベルのCD『The Music of Islam』シリーズの「Vol. 2: South Sinai Bedouins」では放浪部族ベドウィンによる、そして「Vol. 3: Music of the Nubians」では上エジプトからスーダン北部に居住しているヌビア人による、太鼓と掛け合いの歌とタスフィークを聴くことができるのが興味深い)
 エジプトから北アフリカのマグレブ諸国に移動したロマなどの漂泊民が、イベリア半島から南下してきたアラボ=アンダルース音楽 arabo-andalouse(※4)における、複雑なシンコペーションを多用した洗練された手拍子を吸収した後、十五世紀初期に南スペインのアンダルシア地方に北上し、十八世紀に定住化(※5)することによって、フラメンコのパルマス(手拍子)が完成されたのかもしれない。フラメンコのパルマスは、タスフィークを起源とする可能性があるのではないか(※6)。

 ロマが到来する以前のアンダルシア地方では、賛美歌の詩編詠唱の旋律やユダヤ音楽、ビザンチン典礼歌から派生したイオニア旋法やフリギア旋法、イスラム宗教歌、モサラベ(イスラム支配下のキリスト教徒)の作曲者不詳の古歌などが根づいていた。北アフリカから(もしくは本流ルートのフランスから)移動してきたロマが、イスラム宗教歌に見いだせるモノコード(一つのコードのみからなる曲)やメリスマ(歌詞の一音節に対して複数の音符を当てはめる歌唱法であり、ペルシアのタハリールが美しい。シラブルの対語)といった、単旋律のメロディの中にある美しさを追求する東洋的要素に、アラボ=アンダルース音楽や、庶民の間に広まっていた民謡などをロマ自らの音楽性と融合させて、低音でうなるようにかすれた声で歌い、より劇的な表現力を持った「カンテ・ヒターノ」に昇華させたとは考えられないだろうか(※7)。またフラメンコ独特の「オレ」というハレオ(かけ声)は、アラビア語の「神」を意味するアッラーから来ているとも言われている。

 バイラオーラ(フラメンコの女性の踊り手)が使用するパリージョス(カスタネット)も、古代エジプト人が作ったクラッパー(拍子木。楽器のみならず狩猟の道具としても使用)やフィンガー・シンバル(指にはめて使用する木、象牙、金属製のシンバル。トルコではジル、アラブ舞踊ではサガートと呼ばれる)をそのルーツとする説もある(※8)。
「ラッチョ・ドローム」のエジプト編の映像を観れば、このフィンガー・シンバルがパリージョスにより近いものだということが理解できる。映像でのベリーダンス(※9)における力強い足のステップ、腰や手の動きからも、エジプトがインド舞踊とフラメンコの中継地点であることを感じさせられる。中世から近世に多く見られた、大道芸人集団ガワーズィー族 Ghawazee, Ghawazi の舞踊は、音楽のテンポ、ステップや腰の動きがとても速いことをその特徴としており、ベリーダンスから派生したものとされる。彼女たちは定住しないノマドのような生活をしており、ロマの生活形態や社会的立場における共通点も多く、ガワーズィー族のルーツをさらに遡ってみれば、エジプト起源のジプシー(ここではインド源流のロマと区別するために「ジプシー」を使用)に辿り着くのかもしれない。
 面白いことに「ラッチョ・ドローム」のインド編では、カルベリアたちが座って、ターリー Thali と呼ばれるフィンガー・シンバルを使用しているシーンも見受けられる。ターリーは直径5cmほどの二個一対の小型のシンバルで、フィンガー・シンバルのように互いを合わせて打ち鳴らす打楽器だが、この映像では紐をつけてダイナミックに腕を振り回して音を出している(※10)。ジャルタル Jaltal と呼ばれるウォータードラムでもターリーは使用されるようだ。また映像ではマンジーラ Manjira と呼ばれる、民謡以外に宗教儀式でも使われるフィンガー・シンバルも確認できる。他にもマンガニヤールが使う笹蒲鉾型の打楽器カルタールも(さらに中央アジアのタシュ・カイラークも)、パリージョスの使い方と酷似している。パリージョスの変遷を辿ってみても、やはりインドと繋がっているのだ。

 ロマの差別語と見なされるジプシー。その語源が「エジプトからやって来た人(エジプシャン)」であることから、ロマはエジプト起源であるという「誤説」が長年まかり通っていた。だがフラメンコのパルマスやパリージョスの源流を辿ってみると、ロマがエジプトを通過している可能性も考えられ、 さらに前述したガワーズィー族も含め、エジプト源流のジプシー(ここでもインド源流のロマと区別するために「ジプシー」を使用)が存在するのかもしれない。
 実際に非インド起源を主張するジプシーとして、コソボ戦争で有名になったアッシュカリィやエジプシャンなどがいる。アッシュカリィはロマとアルバニア系との混血児の子孫とみられ、特にエジプシャンはアレキサンダー大王に従って移民したエジプト系の末裔を自称しており、それぞれがロマとは別のグループだと主張している。またイザベル・フォンセーカの「立ったまま埋めてくれ(青土社)」によると、ロマの言語であるロマニ語を話さないジプシーとして、マケドニアのイェヴグズ、アルバニアのルリア、モンテネグロ、コソヴォ、マケドニアにいるアシュカリやマンゴーなどの少数民族もいる。

 以上のように、ロマがインドを旅立ち、エジプトから北アフリカのマグレブ諸国を経由する際に、打楽器や身体表現における音楽的影響を受け、スペイン南部のアンダルシア地方でフラメンコが完成されたのではないかという仮説を立ててみた。
 しかし相反する学説もあり、「世界の民族音楽辞典(東京堂出版)」の著者、若林忠広氏は、ロマの流鏑における音楽(インド、バルカン、ルーマニアやハンガリーなど)とフラメンコとの間に、たくましいプロ根性、ハッタリが濃縮した超絶技巧、緩急自在の飽きさせない芸風などの共通点を見出しているものの、『音楽的、楽理的に共通するものはない』とはっきりと論じている(※11)。
 若林氏の説も無視できない重要なものだが、ロマの歩んだルートの支流(コーカサス諸国からエジプトに入り、北アフリカから北上するルート)に着目すれば、ロマとフラメンコにおける音楽的、楽理的な共通項も何か見い出せるのかもしれない。フラメンコに関する歴史資料はほとんど残されておらず、口伝や直伝の模倣だけで世代から世代へと継承されてきたことも、文字や楽譜を書き残さないロマの考え方と重なるのではないだろうか。

 中世においては、世界の歴史と文化の舞台で優位を主張できたのはヨーロッパではなく、北アフリカであった。そしてその北アフリカには、器楽および声楽の模範となっているアラブ古典音楽の存在に加え、多種多様に渡る民族音楽も存在していた。そのハイブリットな音楽様式がフラメンコという芸術表現の完成にも影響を及ぼしているとは想像できないだろうか。
 フラメンコ・ギターにおけるラスゲアートやゴルペ(打撃音)を挙げてみても、そのダイナミックな奏法はヨーロッパ経由で入ってきたものと考えるよりも、リズム表現を主体としたアフリカ方面から入ってきたものと考える方が信憑性がある。さらに高弦部のトレモロと低弦部のメロディを組み合わせる奏法は、アラブの撥弦楽器ウードの奏法に影響を受けているようだ。トケ・フラメンコの完成においても、ヨーロッパ的な要素よりも北アフリカの影響を多く受けていると考える方がしっくりこないだろうか。

 今回、カルベリアとフラメンコとの関連性を導き出すために、ロマの辿った本流ルートの「コーカサス ~ トルコ ~ バルカン ~ ヨーロッパ中央」ではなく、「コーカサス ~ エジプト ~ マグレブ諸国 ~ 南スペイン」に注目し、しかもレコンキスタの流れと逆流するような少々強引な仮説としてみた。結果その仮説では、パルマスやパリージョスなどの小道具における関連性しか紐解けず、肝心の舞踊そのものの関連性を明確に論じるまでには至らなかった。その小道具においてもロマがもたらしたという決定的な証拠はなく、ベドウィンやノマドなど近隣国の別の漂泊民がその役割を果たしている可能性や(※12)、さらに(※5の後半でも触れているように)フェニキア人がパリージョスの原型となるカスタネアをすでに伝搬していたという可能性も大きい。
 通説ではカンテ・フラメンコの方が、バイレ・フラメンコよりも先に完成されたと言われている。ロマがカンテ・ヒターノを完成させた後、カルベリアを初めとするインド舞踊がどのような経路を辿って、アンダルシア地方の民俗舞踊(たとえばセギディーリャスやファンダンゴなど)と融合してバイレ・フラメンコが作られたのだろうか。つまりロマの北アフリカ経由の支流ルートにおいて、エジプトのベリーダンスとアンダルシア地方のバイレ・フラメンコに繋がる舞踊がマグレブ諸国に存在していたのだろうか。もちろんロマの影響をより強く受けているトルコのベリーダンスも重要であり、バルカンや東ヨーロッパを経由した本流ルートにおいても、バイレ・フラメンコに繋がる手がかりは見つかるだろう。ハンガリーやルーマニアの民俗舞踊、さらに都市部ではなく農村部で暮らすロマの、足でリズムを踏み鳴らし手を体で打ち鳴らす素朴な身体表現は、フラメンコに直結するものがあるように思う(参考音源:ベスト・オブ・ルーマニアン・フォーク・ミュージック(Electrecord BNSCD-8826))。

 商業主義に汚染された現在の芸能の中で、当時のロマの足跡を見つけるのはなかなか困難なことなのかもしれない。だが大通りを一歩入った路地裏で、仲間内のささやかな楽しみのためだけに表現される歌や踊りこそに、その本質が隠されているように思う。ロマの息づかいが聞こえるストリートを歩いてみなければ、実際のところは何も分からないのかもしれない。今後もさらなる探求を課題としていきたい。


(次回予定『砂漠の楽士とそのリズム感』/毎週木曜更新)
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※1. たとえばアレグリアスでは12拍を1コンパスとし、3/6/8/10/12拍を強打する。ジプシー的なカンテ・ヒターノでも使用されるブレリアスはアレグリアスとアクセントが同じだが、弱起で12拍目から始める場合が多く見られる。フラメンコがコンパスを厳守して進行していく点は、インド音楽のターラや、ペルシア・アラブ音楽を彷彿とさせる。

※2. 直接ロマに関連する内容ではないので補足に留めるが、諸説あるギターの起源においてもアラブのフィルターを感じさせる。十三世紀に賢王(エル・サビオ)と呼ばれたアルフォンソ十世が編纂した「カンティーガ」には、二種類のビウエラ(ギターの原祖。後述)の元になるものが記載されており、一つはギターラ・ラティーナ、それからもう一つはギターラ・モリスカ(ムーア人のギター)と書かれてある。ギターラ・ラティーナは胴体の横が今のギターのように瓢箪型に凹んでおり、それに対してギターラ・モリスカは胴体がいわゆる普通の西洋梨のような形をしていて、イタリアを中心としたヨーロッパのリュートやアラビアのウードと似たような形をしている。その後シンプルな構造がヨーロッパで発達し、このギターラ・ラティーナやギターラ・モリスカが、当時のヨーロッパの楽器たとえばヴィオルやフィドルなどと融合して、ギターの原祖であるビウエラ・デ・マーノとなってスペインに広まった(注:この一文各諸説有り)。ビウエラに関する最初の文献の記述は十五世紀のアラゴン王国(イベリア半島北東部に存在したキリスト教王国)に見られる。十六世紀のスペインにおいてビウエラは、ギリシア神話に登場する音楽の神としばしば混同されるオルフェウスの楽器リラと同一視され、重要な楽器と見なされていた。このビウエラがリズム主体のスペイン舞踊に合うように改良を重ね、巻き弦の発明を経て、十八世紀後半には六弦に丸いサウンドホールといった今のギターの原型となり、農民の民謡や踊りの伴奏などに用いられるようになった。そして十九世紀半ばには、アントニオ・デ・トーレス・フラドによりクラシック・ギターが開発され、一八六七年にはトーレスによるフラメンコ・ギターの試作が記録されている。
 フラメンコ・ギターの奏法においては、北アフリカのみならずブラック・アフリカを思わせる音楽表現(ラスゲアートやゴルペ。本文後半参照)も見られ、ロマの「エジプト~マグレブ諸国~南スペイン」の放浪ルートを裏付ける理由の一つとなるのかもしれない。

※3. タスフィークのリズムのコンビネーショは多種多様であり、数えあげるときりがない。特に大衆的なものとしては、ワーヘド(古典アラビア語:ワーヒド)、ワーヘド・ウェ・エスネーン(古典アラビア語:ワーヒド・ワ・イスナイン)、ワーヘド・ウェ・ヌスフ(古典アラビア語:ワーヒド・ワ・ヌスフ)、ハムサ、それに8分休符またはシンコペーションではじまり、旋律ないしリズムに変化をつけるために長延音を用いるワハダが挙げられる。

※4. アラボ=アンダルース音楽は、アラブがイベリア半島を支配していた九世紀のアンダルシア地方のコルドバで、アブドゥル・ラハマン二世がウマイア朝のさらなる繁栄のために、バグダッド出身の音楽家ズィリヤーブ(シルヤブとも表記)Zyryab を迎え、宮廷音楽としたのが始まりである。その後もアブドゥル・アズィズやイブン・フィルナースらによってイベリア半島や北アフリカのマグレブ諸国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビアなど)で発展し、十二世紀にサラゴサ出身でイスラム哲学者であるイブン・バーッジャによって完成した。十三世紀以降は再び北アフリカに持ち帰られ、各国で独自の発展を成した。

※5. レコンキスタの後、アラブ人のみならずセファルディム(スファラディとも呼ばれるスペイン系ユダヤ人)さえも締め出された。イスラム教徒とキリスト教徒の仲立ちや潤滑油の役割を果たし、文明・文化の伝達役であった彼らが追放されたことで、結果的にスペイン経済は没落の道を歩むこととなった。放浪していたヒターノ Gitano(スペインにおけるロムの呼称)は官憲たちに法的に迫害され続け(一四九九年からカロルス三世がジプシー法を廃止する一七八三年までに、ロマの服装、言語、慣習を禁止する法令が何度も発令された)、セビージャのグアダルキビル河口近くにジプシー社会を形成したり、洞窟にも住みついたりもした。ヒターノたちが携えていた鍛冶、鋳掛などの技術が、農民の多かったアンダルシア地方では重宝され、さらに彼らの持つ自由奔放さや反逆精神を土地の人たちは受け入れた。ヒターノもこの地に伝わる歌や踊りを次第に覚え込むようになり、そこに放浪で培った彼ら独自の要素が融合して、彼らが定住化していた十八世紀後半にはカンテ・ヒターノが確立された。
 インドから始まったロマの長い放浪旅は、この南スペインを一つの終着地点(理想郷)とし、土地の人に受け入れられ定住化することである種の精神的なゆとりが生まれ、より芸術性の高い音楽としてフラメンコという形に昇華されたのではないだろうか。十九世紀に入ると仲間内だけのものだったフラメンコが「見せる」芸術と発展し、一八四二年にはフラメンコをアトラクションとする酒場「カフェ・カンタンテ」が誕生、その後マドリーやバルセロナなど国内の主要都市にその芸術は拡がっていくことになる。

※6. 厳密にいえば、タスフィークとパルマスの打ち方は異なる面もある。タスフィークは中指の先から手首までを、左右ぴったりと合わせて打ち、広い面積を使うことでたくましい豊かな音になる。エチオピアやスーダンにも共通した打ち方が見られる。一方パルマスは、セコと呼ばれる、左右の手をXのように斜めにして部分的に合わせて、非常に甲高く乾いたはっきりとした音を出す打ち方となる。拍のテンポを考慮しなければ、日本の手拍子の打ち方もパルマスに近いものと言えよう。
 しかしパルマスには、歌手が歌を歌っているときには邪魔にならないように、タスフィークのように手の平を重ねて湿った音で打つソルダと呼ばれる打ち方もあることから、タスフィークとパルマスの関連性はやはり気になるところである。

※7. フラメンコは大きく分けて「カンテ(歌)・フラメンコ」「バイレ(踊り)・フラメンコ」「トケ(演奏)・フラメンコ」があり、「カンテ・ヒターノ」は「カンテ・フラメンコ」の一種。
 フラメンコで使用される旋法は、教会旋法のフリジア旋法 Phrigian(T - m2 - m3 - P4 - P5 - m6 - m7)に長3度の音を加えた旋法(T - m2 - m3 - M3 - P4 - P5 - m6 - m7)であり、現在のコンポジット・モードでは「スパニッシュ・8ノート・スケール」と呼ばれている。理論として確立されたのは一九三〇年代と割と新しいものなので、理論化される以前にロマが自らの感性で生み出した旋法なのかもしれない。

※8. しかしクルト・ザックス Curt Sachs によると、パリージョスの原型であるカスタネア(栗型カスタネット。ギリシャ語でカスタネアは「栗」を表す)はエジプトで使用されていたが、紀元前十世紀前後のフェニキア(現在のレバノン周辺)からやってきたものとしている。当時アンダルシア地方のガディール(現在のカディス)はフェニキアの植民地であったことから、ロマが南スペインに入るかなり以前から、すでにカスタネアがアンダルシア地方で使われていた可能性も否定できない。実際に古いアンダルシア民謡ではパリージョスの使用が一般的であったことから、ロマがパリージョスをもたらしたと早急に結論づけるのは危険である。当時のカンテ・ヒターノにおいては、パリージョスよりもピートス pitos と呼ばれる指鳴らしが多く使われていた。
 バイレ・フラメンコにおける打楽器は、グアヒーラス、セヴィジャーナス、ソレアレス、スィギディージャスではパリージョスを用い、ダンサ・モーラやサンブラのようなアラブ音楽をイメージした舞踊ではフィンガー・シンバルを用いる。
 パリージョスには木製のグラナディージョ、布製のテラ、合成樹脂製のフィブラの三種類があり、利き手に高音、反対の手に低音のものをはめて使用する。パリージョスはフラメンコ以外にも、一七八〇年に創始された民俗舞踊ボレロでも使用される。

※9. アラビア語でラクス・シャルキーと呼ばれ、「東方の踊り」の意味を持つベリーダンスは、イスラム時代以前のエジプトより口承に基づき伝授されてきた。その起源は諸説存在するが、地中海世界、中東、アフリカと関係があるという証拠が多く挙げられている。
 古代においては、当初、踊りは宗教儀式と密接に結びついていた。この骨盤を激しく振る踊りは生殖を強調し豊饒を祈願する、多分に宗教儀式の強い踊りに源を発しているようだ。腰を激しく振る動きは、生殖や新たなる世代の誕生、豊饒を願う神聖な祈願の現われであったようだ。
 イスラムの時代になって家父長制が確立されていくと、女性の地位は大きく変わった。西洋人による恣意的な東洋観の影響もそこにはあるだろう。かくして、かつて腰の動きに込められた生命の誕生と結びついた根源的な意味は、やがて性的な刺激をそそる、官能の世界に制約されたものとなった。(参考文献「エジプト/鈴木八司監修(新潮社)」)

※10. ターリーを使ったカルベリアの楽曲に「テーラー・ターリー」Terah Tali があり、毎年八月から九月(インドのヴィクラム暦バードーン月)にジャイサルメールの東100kmにある小さな寺院ラームデーオラー Ramdevra で行われるラームデーオラー神の祭りにかかせない踊りとして知られている。

※11. 若林氏はその理由を『もし異国情緒が見られたとしたら、各地の民族がそれを好んだということであり、西洋文化の辺境にあること、長いトルコやアラブ支配時代の想い出などの東欧・南欧の民衆の好みのほうが重要なファクターであるはずである。フラメンコに東欧のチャールダーシュ(ジプシー音楽の一種。詳細はWikipediaにて)のようなバイオリン合奏がないのもそのことの証明である。ジプシー音楽は彼ら自身の音楽であるというよりも、彼らが生きていくためにその土地の民衆に喜ばれるように自由自在に迎合させた音楽である』としている。

※12. 十四世紀の偉大な博学者イブン=ハルドゥーンは「歴史叙説」において、砂漠のアラブ人(ベドウィン)の生活や性質を分析して『田舎や砂漠の生活形態は都会に先行し、文明の根源である』という命題を導いた。


















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