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roma fortview

(画像:ジャイサルメールの砦から眺める日の出直後の風景。太古からランガやマンガニヤールなど砂漠の楽士たちも、寺院やパトロンの元に通う途中に、この風景に慣れ親しんだのかもしれない。リクシャーが爆音をなびかせて走り回る昨今に比べ、遙か太古は閑静でさぞかし優雅な時間が流れていたことだろう。はたして砂漠の楽士たちは輪廻思想の下、自らを芸術的に高めることを心の拠り所として暮らしていたのだろうか)



『われわれインド人にとって、ヒンドゥーの音楽は、人間の魂と事物の背後にある魂との関係を歌う。ヨーロッパの音楽は、協和音と不協和音による奥深いハーモニーと、互いに分離した断片の結合によって、昼の世界を表現する。だがわれわれの音楽は、ひとつの、純粋な、深い、そしてもの柔らかなラーガによって、夜の世界を奏でる。このふたつの音楽は、どちらもわれわれを感動させるが、しかしおのおのの本性は、昼と夜、単一と変化、定まったものと不定なものというふうに、永遠にちがったものである』(ベンガルの詩聖タゴールのことば)


 インドの音楽には楽譜から音楽を再生する習慣はない。楽譜によっての再現は不可能であり、複雑なラーガ(旋律の法則)、ターラ(リズムの法則)はあくまで口頭伝承によって受け継がれてきた様式なのである。
 ラーガには時間、季節、表現される感情等も含まれ(※1)、演奏者が状況によって相応しいラーガを瞬時に選択する。西洋音楽理論にラーガを置き換えることは不可能であり(※2)、理論上3万7000種類とも6万5000種類とも言われる中のごく一握りのラーガを覚えるだけでも大変なことである(※3)。実際には300種類くらいが知られているに過ぎず、そのうち一般的なものはせいぜい100種類程度である。おそらくひとりの音楽家がそれなりの自信を持って演奏できるのは50種類くらい、完全にマスターしているものとなれば25種類くらい、さらに演奏の場において臨機応変に対応できるのはその中の5種類くらいなのである。ジョージ・ハリスンが志し半ばにして、シタールの学習を諦めてしまった気持ちも察することができよう。外国人にとって一見同じ味のように思えてしまうインド料理が、実際は各種のスパイスの調合具合で微妙に味が変わるといった繊細な側面は、まさに豊富な種類を持つラーガの多様性を表しているかのようだ。

 インドの音楽には西洋音楽で使う対位法や和音の概念はなく、ガマカ(装飾音)や微分音で音を彩る。それは無限の音色の変化、装飾音、ポルタメント、トレモロ、音の上げ下げを特徴として、インドの音楽の旋律線を柔らかなものにしている。対位法や和音を使う方が洗練された音楽ではないかと思われるかもしれないが、小泉文夫氏の見解によれば、千年とか万年という大きな人類の歴史からみれば、ハーモニーや対位法のある音楽は比較的プリミティヴな共同体的社会の中にあって、成熟した社会(原文は「発達した社会、高級な社会」)の中ではユニゾンが発達しているとされている(※4)。
 インド音楽の即興性はジャズに通じるものがあるが、ジャズは身体的・直接的なものであるのに対し、インド音楽はより哲学的および数学的な美しさを持つ。数学的な美しさはリズム奏者においてのターラで顕著に表現され、複雑なリズムをまるでコンピュターで計算したかのように叩き上げ、綺麗にサム(拍子の一拍目)に戻ったときには観客も演奏者もカタルシスを感じる。ターラは単に拍子をとること以上の役割を果たし、それは輪廻思想にも繋がる。使用ラーガの意味やターラの周期など、インド音楽理論を知れば知るほど、観客は演奏者の意図をダイレクトに汲み取り、音楽と一体化することができるのだ(ターラついての理論的な解説は、長くなるので今回は割愛します)。

 インド音楽と西洋音楽の融合を目指した音楽家も多く、ジャズ界においてはジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィスを筆頭として、ファラオ・サンダース、ジョン・マクラフリン、エリック・ドルフィー等数多く存在し、音楽と精神世界との架け橋を作った。
 またロック界においては、バーズ「霧の8マイル」、ローリング・ストーンズ「黒くぬれ」、ジェファーソン・エアプレイン「ホワイト・ラビット」、ドアーズ「ジ・エンド」などのラーガ・ロックというスタイルが60年代中盤に確立されたが、これは楽器を似せたりフレーズがなんとなくそれっぽかったりと直感的・表層的な表現に過ぎず、インド音楽を深く掘り下げたものではなかった。ロック界におけるインド音楽との融合は、ジョージ・ハリスンのアプローチがよりクリエイティヴで誠実なものではないかと個人的には思う(※5)。

 インドでは、民謡と芸術音楽や古典音楽の境界は実に曖昧である。あえて境界を設けるのであれば、意識的な文法が存在するか否か、つまり音楽理論に沿った確固とした構造を持っているか否かで判断できる。だがベンガルのキールタン、マハーラーシュトラのアバンガ、アーンドラのパダムなどの劇場音楽は、洗練された形式として常に挙げられるものの、厳密な意味では古典とは見なされない。これらのように適切な言葉を当てはめられないものに関しては、「伝統音楽」というカテゴリーを加える必要がありそうだ。
 さて、ラジャスタン地方の重要な音楽集団であるマンガニヤールやランガの演奏においても、ただ伝承されている民謡を歌うだけでなく、インド音楽理論を踏襲しているものも多く見受けられる。洗練された即興性を持つ彼らの音楽も、民謡というカテゴリーに押し込めずに伝統音楽と呼んで差し支えないのではないだろうか。実際にラージプート地方の民謡を起源とする「マーンド」mand という名のラーガも存在する(※6)。彼らの即興性においては、よりクールで形而上学的性格を持つ南インドのカルナータカ音楽よりも、感情表現が豊かな北インドのヒンドゥスターニ音楽の影響を垣間見ることが出来る。
 古典的なものと民族的なものが、砂漠という厳しい居住空間の中で融合し、それが肉体表現を伴った表現にまで昇華されたのが、ラジャスタン地方の民族芸能なのである。パトロンたちに仕えていた太古から、観光客相手に演奏する現代に至るまで、彼らはその表現を柔軟に時代に対応させて今日まで生き残ってきた。その臨機応変な柔軟性は、放浪先の土地の民衆に受け入れられるために、自らの音楽性を変幻自在に合わせてきたロマの生き方にも通じるものがあるのではないか。

 今日でもジプシー音楽が楽譜によってではなく、口頭伝承や世代継承によって受け継がれている理由が、このインド音楽による影響もあろうかと思う。即興性があるからこそ、マンネリズムに陥ることなしに一度だけの演奏に生命を爆発させる。過去でも未来でもなく「今」を生きることに重きを置くロマにとって、即興性は人生そのものの表現なのだ。


● 参考・引用文献1:世界の民族音楽辞典/若林忠宏(東京堂出版)
● 参考・引用文献2:インド音楽序説/B.C. デーヴァ(東方出版)


(次回予定『インドの放浪部族』/毎週木曜更新)
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※1. 例えばアヒール・バイラヴは「早朝」、ジャイトシュリーは「夕暮れ」、チャンドラカウンスは「深夜」、ジャヤント・サーラングは「雨期」のラーガである。
 近年、一般大衆向け演奏会の時間設定の制約、ラジオやテレビ放送などの制約、都市化による生活様式の変化などから、季節や時間によるラーガの束縛はだんだん緩くなってきている。また南インドのカルナータカ音楽においては、二、三の例外を除いて、ラーガの時間制約は全くない。
 ラーガの時間帯を一般的に決定する方法の一つとして、ラーガ内にシュッダ音(自然音)、コーマル音(変音)、ティーヴラ音(嬰音)が含まれるかどうかで判断するバートカンデーの研究法がある(他にも主要音の位置で判断する方法もある)。たとえば、「Db, E, Ab, B」を含む音階は、昼と夜が変わる薄明、たそがれの時間帯のラーガである。また「D, E, A, B」を持つ音階は、たそがれの後にやってくる朝、または夜の2番目の時間帯(夜の9時から深夜零時。後述)である。そして、朝あるいは夜の3番目と4番目(昼の12時から夕方の6時、あるいは深夜零時から早朝6時)の時間帯では「Eb, Bb」を含むラーガが演奏される(いずれも便宜上 KEY=C にて表記)。
 インドには一般に一日を8つの時間帯に分ける習慣があり、夜明けから順に3時間ごとに区切った1単位をパハル Pahr という。ヒンディー語の「アートン・パハル」は、8つのパハル、つまり24時間であるから、「一日中」という意味になる。ただし夜明けや日没の時間は季節によって一定ではないので、パハルの数え方も絶対的ではない。

※2. 西洋音階の「C D E F G A B C」相当するものは、インド音楽では「サリガマパダニサ」と表記される(Sa=シャドジャ、Ri=リシャバ、Ga=ガーンダーラ、Ma=マディヤマ、Pa=パンチャマ、Dha=ダイヴァタ、Ni=ニシャーダ)。しかしインド音楽には A=440Hz という絶対音の概念はないので「C=サ」とはならず、歌い手の音域において基調となる音が「サ」と定められる。
 基本的な面では西洋音楽理論に置き換えることも出来なくはなく、たとえばヒンドゥスターニー音楽における10の主要なタート(パターン)のうち7つは、西洋音楽のチャーチ・モードやコンポジット・モードに置き換えることは可能である(以下、便宜上 KEY=C にて表記)。

・ビラーヴァル・タート = Ionian(C, D, E, F, G, A, B, C)
・カマージ・タート = Mixolydian(C, D, E, F, G, A, Bb, C)
・カーフィー・タート = Dorian(C, D, Eb, F, G, A, Bb, C)
・アサーワリー・タート = Aeolian(C, D, Eb, F, G, Ab, Bb, C)
・バイラヴ・タート = Harmonic Minor(C, Db, E, F, G, Ab, B, C)
・バイラヴィ・タート = Phrigian(C, Db, Eb, F, G, Ab, Bb, C)
・カリヤーン・タート = Lydian(C, D, E, F#, G, A, B, C)
・マールワー・タート(C, Db, E, F#, G, A, B, C) = 該当無し
・プールヴィー・タート(C, Db, E, F#, G, Ab, B, C) = 該当無し
・トーディー・タート(C, Db, Eb, F#, G, Ab, B, C) = マカーム(アラブ音階)の「アサル・クルディ」と同じ

 しかしラーガには、上行(アーローハ)/下降(アヴァローハ)という考え方があったり、その他、固有の強調音、開始音(グラハ)、終始音(ニヤーサ)、旋律単位(パカル、チャラン、ターン、サンチャーラあるいはヴァルナ)、さらに四つの句読法すなわち、ヴァーディー(ラーガの使用音の中で最重要な音)、サンヴァーティー(ヴァーディーに対して4度ないし5度の関係にある音)、アヌヴァーティー(ヴァーディーとサンヴァーティーを除いた他の音)、ヴィヴァーディー(調和しない音)などの定義もあるため、西洋音楽理論に置き換えて考えることには限界があり、実践においてはナンセンスである(これはアラブ・中東圏で用いられる各種マカームにも言えることである)。


※3. 北インドのヒンドゥスターニ音楽では、ラーガが、10のタートまたは親の音階(ヴィシュヌ・ナラヤン・バートカンデ Vishnu Narayan Bhatkhande による)へ最近分類され、南インドのカルナータカ音楽では、72の親ラーガを誇示して、メーラカルタ melakarta 分類と呼ばれる、より古くより系統的な分類スキームを使用する。

※4. たとえば台湾国民政府成立までは首狩り族だった台湾の先住民族は、ポリフォニー(同じ旋律を各声部が模倣する歌唱法)で歌っており、首狩り前に合唱するハーモニーの完成度で狩りをするかどうかを決めていた。ハーモニーが揃わない時はチームワークが良くないので、戦いに負けてしまう可能性が大きいからである。またこうした多声合唱は、ボルネオのケニア族やインドの東部ナーガランドの山地民にも見らるし、ディレイ的効果を持つ多声合唱として、タイとミャンマー国境近くのアカ族の合唱やアイヌ民族のウポポがある。またリズムの多声性として、ボルネオのビダユ族やフィリピンのルソン島のカリンガ族が挙げられる。
 社会形態が王様による権力支配の段階になると、音楽はポリフォニーからユニゾンへと変化する。支配者の命令に従って、個人の都合や好みを無視して皆が同じ旋律を歌うということは文化的なのである。世界の四大文明(メソポタミア、エジプト、中国、インド)に関係する地域の音楽はユニゾンなのである。ヨーロッパは例外的にハーモニーや対位法を基本としているが、わずか数百年前までは、今日のヨーロッパ人を構成する大きな要素でもあったゲルマン民族のバイタリティを持っており、先に述べた首狩り族のようなポリフォニーの音楽だった。しかしその後急激な高度成長において、ユニゾンになる暇もなく、特殊な形で現在に至っている。これは東洋の音楽が、周辺諸国との交流を保ちながらも独自の孤立した音楽を育んだのに対し、ヨーロッパの音楽はルネッサンス後に、ベルギーやオランダ、ドイツ、フランス、イギリスなど音楽家がその時代の中心になった国に移動することにより、お互いに影響を受けながら、ひとまとめになって発達してきたという歴史があるためである。

※5. だが本家から見た彼らのインド音楽への接近は、少々辛口の反応である。たとえばラヴィ・シャンカールは、ジョン・コルトレーンの音楽を「個人的には好きだが、混乱に満ちている」とし、ジョージ・ハリスンに対しては「シタールという楽器をどう構えてよいか教わったに過ぎない」と、厳しいコメントを残している。

※6. 上行:C, E, D, F, E, G, F, A, B, A, C / 下降:C, A, B, G, A, F, G, E, F, C の音階を持つ(便宜上 KEY=C にて表記)。時間帯は常時。




お久しぶりです。
個人的には、このような音楽観と、一番遠いのがJ-Popを含めた日本の歌謡曲だと思います。全てが無理矢理。

ちなみに、マールワー・タートって、ムトゥ踊るマハラジャで、良く聞こえた音階ですね。かっこいい。
【2007/08/16 16:32】 URL | mesoman1 #nJ0MVLSg[ 編集]
あっメソマンさん!お久しぶりです。
マールワー・タート・・・う~む鋭い、さすがです。

ごく最近の国内外のポピュラー音楽には全く疎いので、知ったようなことは言えないのですが、
下品なまでの商業主義にうんざりすることがありますね。
昔の話になりますが、ぼくはBeing系の音楽の転調の仕方に「無理矢理」を感じたのを思い出しました。
今の状況はもっと酷いんでしょうね。

音楽だけで食べていけない現実は、どの国も似たり寄ったりですが、
とくにアジア圏では、アマチュアの奏でる音楽に文化の香りがしますよねぇ。
そういうの目の当たりにすると、伝統芸能と民衆の文化が切り離されている日本の文化っていったい・・・。

昔の歌謡曲はまだ文化の香りがしていたように思います。
都倉俊一、筒美京平や浜口庫之助を筆頭とする当時の作曲家たちは、意識的にペンタトニックスケールを用いて
わらべうたや童謡のテイストを盛り込んでいたりして。
【2007/08/16 20:58】 URL | こいで #-[ 編集]
今晩は、シリーズを興味深く読ませて頂いています。
今回の音楽の話のディティールと構成についてゆく能力はないんですが、気になったことが一つあるので質問です。よろしく!
>季節や時間によるラーガの束縛…
このようなフレーズに出会ったのですが、それは束縛なのでしょうか。束縛と感じるのは近代的感性なのか、そうではなくインドの近代化から離れた環境に居住する(即ち今回の冒頭で書かれている「遙か太古は閑静でさぞかし優雅な時間が流れていたことだろう。」といった環境に近い環境)に古典音楽家にとっても束縛と感じられるものなのでしょうか。
  
この問いが出てくる根源は、以前舞踊の場所性について書いたときと同じなのです。
アジアをモンスーン・アジアとして規定すると、ラジャスターン等内陸の砂漠性気候の地域は別にして、蒸し暑さ等のために沐浴などを頻繁にする地域であり、無意識的に身体の感性が一日の状況の変化や一年の状況の変化に敏感となり、日夜の変化と循環性に共鳴化した文化性を帯びているのではないかと思っています。こういった無意識(であることが多い)文化性のなかでは、一日や気象の変化に適応した共感性をもたらすラーガ選択は、望ましい音楽経験の境地に至る素直な道であり、束縛という認識は埒外なのではないかと思ってしまったのです。束縛と思うとすれば、それは近代化都市人の乱雑な自由を追求する都市性への、無意識的な適応の結果ではないのかと…
そして近代化都市人音楽家が、そこでの自己のありかたへの行き詰まりを自覚したとき、むしろラーガの根源とはいったい何だったのかというまなざしでラーガを振り返る道もあるのではないかと感じています。
  
音楽に詳しくはなく、失礼があるかとも思っておりますが、他意なく率直にお伺いしたいことなのです。経験の深いこいでさんからのお答えが教えて頂けますと誠に幸いです。
【2007/08/16 22:05】 URL | 雲水 #8U/jmZAQ[ 編集]
 ラーガの種類を演奏時の状況で判断することは、西洋音楽理論に基づいて音楽に親しんできた自分から見れば、ガチガチの制約の中で表現する不自由さがあるように思えます。それを「束縛」という言葉で表現した次第です。小泉文夫氏もインドに音楽留学していた若かりしころ、「インドの音楽は保守的である。理論を飛び越えて、より自由にクリエイティブな面からインド音楽を表現出来ないのだろうか」と、同様の疑問を抱いていた時期があったようです。後に彼は長いインド滞在において、インド音楽の完全性に身をもって体験することになり、当初の思惑は稚拙であったことに気付かされたのですが。
 ぼく自身にとってインド音楽の完全性は、長年インド音楽を追究してきたところから分かったわけではなく、単なる知識や情報として分かっているに過ぎない面もあります。ラーガを束縛と捉えない感性を持つには、インド音楽を長く追求し、とある境地にまで達して初めて分かることではないかと思います。ぼくの稚拙な感性ではラーガは不自由で面倒なものという捉え方になります。「束縛」という言葉を選んだのは、今の自分の感性に従ったまでです。
【2007/08/17 10:05】 URL | こいで #-[ 編集]
レス有難うございます。こちらから頂く知識は多く、頂いているばかりですので、お役に立つかどうかは分りませんが二つお届けします。
  
1.日本経済新聞の文化面で、
  『「イノセンスへの旅」十選』 椿 昇(現代美術家)/著
  という記事が現在連載中です。名が示そうとするものが、
  こちらと近似する気がしましたのでご参考に。
 
一部転載です>
『かって人類も昨日と異なる明日を喜ばず、未来におびえて暮らしていた時期があった。過去を反芻する精神世界のみに価値を置いていた時代があった。…』 第二稿『テオファネス「キリストの変容」』
 
 
2.北インド古典音楽家(笛)の方のインタビュー記事が掲載
  されている雑誌内容の一部が紹介されています。
  アジアウェーブ8月号
  http://www.asiawave.co.jp/aw2007_08laos.htm
 
 
こちらに紹介されている音楽家の方に伺ったことがあるのですが、ヒンドゥスタニー音楽のレコードで、百年前(ぐらいだったと思います)のものを聞いた時、現在の放送や大量生産CDなどの枠組みによって変容してしまっているヒンドゥスタニー音楽のありかたとは、全く違う姿勢があったようです。この話を伺ったとき、(私にとって)過去の音楽家があの「保守的構造性」の中で追求した究極は、彼らにとっての自由あるいは神へ向かう究極だったのではないかという印象がありました。祝祭的遊戯と言うべきなのか分りませんが…
いずれもご参考に… 
【2007/08/18 12:44】 URL | 雲水 #guRgTqeo[ 編集]














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