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Roma_BlackMaria

(画像:サント・マリー教会の地下祭室に祀られている黒いサラの像。トニー・ガトリフ監督作品「ラッチョ・ドローム」より)



 南仏カマルグ地方の地中海に面した街、サント・マリー・ド・ラ・メールはロマの巡礼地としてその名を知られている。毎年五月下旬に開催されるサント・マリー祭で、サント・マリー教会の地下祭室に祀られている黒いサラの像を礼拝するために、彼らが大勢この土地に集まってくるのだ(※1)。蝋燭の光で浮かび上がったサラを抱きしめ、何度もキスを繰り返す。ロマの熱心な信仰のおかげで、サラの頬はケロイド状にただれてしまっている。トニー・ガトリフの映画「ラッチョ・ドローム」においても、黒いサラの像の御前で敬虔にギターをつま弾くフランスのロマ(ジタン)のシーンや、白い馬に乗ったカマルグ・ガルディアンの勇姿、司祭に囲まれてサラの像を担ぐロマなど、活気に溢れたフェスティバルのシーンは印象深かった。

 黒いサラは、キリストの処刑に立ち会った三人のマリア(マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、マリア・サロメ)の一人、マグダラのマリアの召使いであり、ユダヤ人に迫害され、パレスチナから櫓(ろ)も帆もない小舟に乗せられ、地中海を漂泊して奇跡的にこの地に流れ着いた。小ヤコブとヨセの母マリアとマリア・サロメ、そして彼女たちに従う黒いサラはこの地に残り、布教をした後に没したという古い伝承がある(※2)。この二人の聖女マリアたちの墓跡にサント・マリー教会が建てられ、九世紀にはイスラム勢力の侵略から備えるためにロマネスク様式の単純な要塞に改築され、一一三〇年には堅牢な要塞教会となって現在に至っている。
 十五世紀以降、サント・マリー教会はキリスト教徒の巡礼で賑わうようになったが、当時はロマの巡礼は許されていなかった。一八六二年に二人の聖マリアの像を創った時の御披露目式に数人のロマが参加したのを初めとして、一九一一年になって、ようやく九百人のロマによるサント・マリー教会への巡礼が許された。黒いサラが聖女として認められたのはごく最近のことであり、それは教会自らの慈悲によるものではなく、ガルディアンの英雄フォルコ・ド・バロンセリ侯爵が頑固な教会を説得し続け、一九三五年五月二四日のサント・マリー祭で初めて「黒いサラ」の像の行列を実現させたのである。しかし守護神サラに対するロマの熱い想いとは裏腹に、教会の対応は相変わらず冷ややかで、サラの像は二人の聖女マリーの像とは差別され、今でも教会の地下祭室に放置されているのである(※3)。

 そもそもガリア地方(現在のフランスとその周辺地域の古い名称)に点在する黒マリア像は、キリスト教との関連性は薄く、土着的な母神信仰をその起源とする。ロマにとってのキリスト教やイスラム教は、その土地で生活するための処世術に過ぎず、実際は偶像崇拝をその信仰としていた(※4)。
 そして、黒マリアについての最初の本格的研究「フランスの黒マリア その起源について」を発表したエミール・サイヤンが想像するように、黒いサラはインド神話のカーリー神でもあるという仮説は、ロマの源流をインドとする点から見ても興味深い。そもそもカーリー神は殺戮と破壊の象徴であり、南インドを中心とする土着の神の性質を習合したものとされる。仏教においてのカーリー神は大黒天(シバ神)の妃、大黒天女と呼ばれており、また日蓮上人の「観心本尊抄」では鬼子母神とされており、黒マリアの母神信仰との類似点をここにも見出せる。

 音楽や舞踊という芸能表現は、体内から湧き上がるエネルギーで破壊と創造を繰り返すことでもある。ストイックに練習を重ね、自分自身との対話に真摯に向き合っているような高レベルの表現者であればあるほど、人生や表現に対しての苦悩も比例して増す。彼らが心の拠り所として、クリエイティブな気持ちを保持できるような強い神を求めるのは必須である。そんなことからもインドの低カーストの楽士や舞踏家、芸能者がより土着的なカーリー神を信仰することは理に適っているし、西方に渡ったロマも、芸能を表現している時にはカーリー神のような地母神を無意識下で想起しているのかもしれない。実際にバルカン諸国や中央ヨーロッパのロマの間でも、カーリー神がポピュラーな存在であると聞く。このようなことから芸能表現においても、カーリー神と黒いサラは、ロマの変遷の重要な起点と終点になるのではないだろうか。

ここでインド・ラジャスタン地方の芸能者や楽士の信仰を挙げてみたい。

・ランガ:イスラム信仰
・マンガニヤール:イスラム信仰
・ジョーギー:ドゥルガー信仰
・カルベリア:ヒンドゥー信仰
・ボーパ:ヒンドゥー信仰

Roma_Kali パトロンたちを相手に演奏するランガのイスラム信仰は、彼らが西暦五~六世紀にアラブやアフガンから渡来したためと思われる。マンガニヤールとイスラム教の関わりについては不明だが、ランガと同根で後に枝分かれした可能性もあるし、カーストの縛りから逃れ、パトロンを得やすくするためにヒンドゥー教からイスラム教に改宗した可能性もある(※5)。漂泊民のジョーギーがドゥルガー信仰(※6)なのは肯けるし、カルベリアも公式にはヒンドゥー信仰とは言え、根本には蛇に関連したトーテミズム的性格を持っており、さらには地母神的なカーリー神を讃える気持ちを舞踏表現のときに抱いているのかもしれない。カルベリアの地を震わすような激しい踊りは、シバ神が体を張って止めたくなるに相応しいようにも思える(※7)。(【2008.4.20追記】ジョードプルのカルベリアのコミュニティを訪問した際に、信仰について彼らに尋ねたところ、ヒンズーの神の中ではシバ神が最重要であるとのこと。カーリー神は特に重要ではないという。ここに訂正いたします。)ちなみにヒンドゥー教にはナーガ(女性形はナーギニー)という蛇神がいるのだが、個人的にはどうもカルベリアとは結びつかない。さらにヒンドゥー教でポピュラーなサラスヴァティは芸術の女神とされているが、その洗練された優雅さは土着的な芸能表現とはどうも結びつかない。
 カーリー神はベンガル地方で篤く信仰されているが、ラジャスタン地方でも信者が多いと聞く。両地方の共通点を探ってみると、どちらも土地に根付いた民族芸能が盛んであることに気付かされる。このことからもカーリー信仰と芸能表現には密接な関係があるように思えるのだ。

 以上のことを踏まえて、信仰的側面からみたロマの変遷において、カーリー(またはドゥルガー)信仰は注目するに値する。インドにおいて最大の漂泊民族であるバンジャラ族は、公式にはヒンドゥー信仰だがその根本は偶像崇拝である。さらにデカン高原に点在するバンジャラ族の村々(ショラプル近くのバロジー・ナガール・タンダ村、オスマナバード近くのシバジー・ナガール・タンダ村など。タンダはバンジャラ族の幌馬車のことを指す。【2009.4.5追記】アンドラ・プラデシュ州のハイデラバード周辺、カルタナカ州のビジャプール周辺、マハラシュトラ州のショラプルやジャルガオン周辺。彼らは村から離れた場所で「タンダ」と呼ばれる集落を作って生活している)では、祈祷師がトランス状態に陥りながら黒い山羊を生け贄にするといった、シャーマニズム(※8)を基調とした原始的なドゥルガー信仰が残っている。祈祷師の書いた卍(まんじ)の中央に生け贄の山羊の頭と心臓を供え、四肢を切り取り四本の線に沿って置き、歌を歌い先祖を慰める(※9)。さらにデカン高原の奥地に入れば、ドゥルガー信仰が独自のシャーマニズムと融合し、たとえば人間を生け贄とするような過激な村も存在するのかもしれない。

 このように原始的な地母神信仰における、陶酔した宗教的恍惚状態に導く音楽は、舞踊や呪術的儀式と深く結びついており、インド全土で見られる。
 西ヒマラヤ、とくにクマオンやガルワールでは、アーリア人侵入以前の祭礼と関係のあるジャーガルと呼ばれる呪術的な儀式がある。ジャーガルは悪霊ブータの信仰と結びついており、ブータは人間や動物を占有し、またそれらを悪党や野獣の姿にして攻撃する力をそなえている。ジャーガルは悪魔払いの儀式であり、夜に限って催される。歌い手はドム(私説ロマ過去記事「ロマの流鏑の歴史」でも少し触れた不可触民)のカーストに属している。この儀式でもドールキやダムなどの太鼓のビートに合わせて、祈祷師がだんだんとトランス状態に陥り、一種の霊媒のような役割を果たす。
 同じように恍惚状態を引き起こす呪術的な舞踊は、インド東南部のポンデシェリー地方の漁村や、東北部のオーストロ・アジア系の先住民族であるサンタル族(※10)、スリランカの山岳ヴェッダ族(※11)などにも見られる。

 地母神的側面を持ったカーリーやドゥルガー信仰の彼らと同じような精神性を、古いガリア地方にも見出すことが出来る。ローマ文明の強い影響を受ける以前のケルト人は神殿を造るということはしなかった。彼らが崇拝していたのは神殿でも神像でもなく、彼らが神聖視していた特定の場所であった。神聖な場所とは、人間の目に見えない世界、神々の世界と接触することのできる場所でもあった。ドルイド(ケルト人社会の祭司)たちは中央に孤立した樫の木が聳えているような場所を特に重視し、祭儀の際には牡牛を生け贄として供え、時には両足を切断した人間をも樫の木に吊して供えたのである。黒マリアの像が、このような森の奥の樫の木近くで発見されたという伝承もいくつかある。
 またドルイドは、太陽や天体の軌道上の運行や四季のサイクル(循環)から円環の動きを見出し、それが輪廻転生思想へと発展していった。輪廻転生思想は当時のヨーロッパ文明には存在せず、ケルト独自の思想として際立っている。

 ヨーロッパのロマが、土地の教会や権力に保護された宗教を生きていくための方便として利用しつつも、実際はこのような土着的な母神信仰や黒いサラを、放浪生活における心の拠り所としていたと考えるほうがしっくりくる(※12)。


(次回予定:最終回『ヒジュラとロマ』/毎週木曜更新)
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※1. だがサント・マリー教会を巡礼するロマは年々減少しているようである。移動手段が幌馬車から自動車に代わり、ガソリン代がかかるようになったこと、雇われ仕事をする者も多くなり、休暇が思うように取れなくなってきたことなどが影響しているようだ。

※2. サント・マリー・ド・ラ・メール(海からのマリーたち)という土地の名称は、彼女たち二人のマリアの名前に因んで一八三九年に名付けられた。そして三人のマリアの残りの一人、マグダラのマリアはサン・ボーム山塊に赴いたという伝説が残されている。さらに小舟に同乗していたマルタはタラスコンへ、ラザロはマルセイユへ、マクシミヌスとケドニウスはエクス・アン・プロヴァンスへと赴いて、キリスト教の布教に努めたとされる。

※3. 南フランスの『陽光溢れる朗らかなプロヴァンス地方』というメルヘン調のイメージは、外国人観光客向けの謳い文句に過ぎず、実際は保守的で封建的な社会が根強く残っており、魔術、神秘、呪いが滲み付いたおどろおどろしい側面を持っている。
 十六世紀から十七世紀に最盛期を迎えた魔女裁判においては、物乞い、占い、魔術を扱うとされたロマも目をつけられ、プロヴァンス地方でも多数火あぶりの刑に処された。また大戦中のホロコーストにおいては、ユダヤ人だけでなく五十万人にのぼるロマも犠牲になったが、その背景ではフランス警察がドイツのナチ親衛隊に率先して、ドイツ占領下の北フランスのみならず、当時は半自由地区であった南フランスでもユダヤ人狩りやロマ狩りをして、二十世紀の魔女狩りが再開されたのであった。

※4. F.W.ニーチェは『アンチクリスト』で「自信を持っている民族は自分たちの神を持っている」と述べている。彼らが神を祀るのは自分たちの誇りのためであり、誇りを持っている民族は犠牲を捧げるために神を必要とする。そして感謝する相手は結局は自分自身なのである。こういった神は単純ではなく、味方であるだけでなく時として敵ともなる。悪いことにおいても善いことにおいても、神は必要とされるのである。それが本当の神の姿なのではないのだろうか。
 ニーチェの思想から見れば、ロマは「誇り高く自信を持っている」民族だと言えないだろうか。放浪先でたえず蔑視や嫌悪の標的にされつつも、それに屈せず民族が滅びずに生き長らえることは、並大抵の精神力ではない。彼らの心には善悪の価値観をも凌駕した「自分たちの神」が存在していたことは疑いようがない。もし彼らがルサンチマン的性格をもつキリスト教を本気で信仰し、原罪意識に悩まされながら放浪生活を続けていたならば、精神崩壊、さらには民族崩壊は免れなかったかもしれない。
 ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、それはイエス・キリストを批判したわけではなく、イエスの教えをパウロや教会が自分たちの権力獲得のために都合のいいように利用し、キリスト教やイスラエル、さらには人類の歴史までをでっちあげてしまったことを嘆いたのである。後にイスラム教を始めたムハンマドは「不死の信仰」をキリスト教から拝借して利用したが、これにもパウロと同質の腐敗臭が漂っている。
 イエスは「人間の救済」のために死んだのではなく、「人間はいかに生きるべきか」を教えるために死んだのである。イエスは仏教の教えと同じく「実行」を説いたのであるが、それがパウロにより「約束」の宗教として全く正反対の教えを持つキリスト教にでっちあげられてしまった。
 私はイエスの人生とロマの人生に共通点を見出している。両者とも自分自身と向き合いながら生きていた。第三者からは誤解され軽蔑の対象にもなったが、自身の揺るぎない強い信念のもと放浪人生を生き抜いた。ロマはキリスト教以前の本来のイエスの生き方、すなわち神と人間との一体化を実践しているように思える。極論すれば、ロマこそがイエスに最も近しい人なのかもしれない。さらにロマ Roma はその名の通り、キリスト教以前の健全な精神を持ったローマ帝国時代を無意識下で理想郷とし、そんな世界を探し求めて放浪を続けていたのかもしれない。ロマの定住化が進んできた現在となっては、そのような妄想も的外れなロマンチシズムに過ぎないのかもしれないが。

※5. ラジャスタン地方では「カーン」という名をよく耳にする。北インドではアフガン系の移民に、モンゴル族の最高の称号を示す「ハーン」が用いられていた。マンガニヤールなどのヒンドゥー教の下級カーストの楽士がこぞってイスラム教に改宗した際に「カーン」を名乗ったが、必ずしも彼らがアフガン系とは限らない。

※6. デカン高原の北部、ヴィンディヤ山脈地方の土着神。ドゥルガーはアスラの戦いの際、分身として額からカーリーを産んだ。カーリーやドゥルガー信仰はベンガル地方で盛んだが、私が訪問したラジャスタン地方ではより原始的な信仰として残っている印象を受けた。ラジャスタン地方の人々はドゥルガーのことをマータ Mata と呼んでいる。

※7. 一説には、アスラの戦いで勝ったカーリーは歓喜して勝利の舞を始めたが、あまりの激しさに大地が裂けそうになり、シヴァが衝撃を弱めるために下敷きになったとされる。

※8. シャーマニズムは、トランスのような異常心理状態で超自然的存在(神・精霊・死霊など)と交流し、予言、占い、治療行為などの役割を担う呪術師(シャーマン)を中心する呪術・宗教的形態のことである。
 シャーマンの語源はシベリア地域、ツングース民族の「サマン」とされ、ツングース語で「精神的に高揚し、感動し、高められた者」という意味を持つ。さらに語源を遡ると、古代インドのパーリ語の「シャマーナ」、あるいはサンスクリット語の「スラマーナ」に辿り着くという説もある。
 シャーマニズムは世界中で数多く見受けられるが、特にアジアはその宝庫である。韓国は最近またその熱が復活しているし、中国の少数民族や東南アジアにも多く見られる。さらにチベットやインドのラダック地方には非常に古いシャーマニズムが残っている。ヨーロッパではキリスト教圏にも関わらず、本記事でも触れている古代ケルトのドゥルイドなどのシャーマニズムが文化の深層において生き残っている。その他ナイジェリアのヨルバ民族、ハイチのブードゥー、キューバのサンテリーア、ボブ・マーリーで有名なジャマイカのラスタファリアなど挙げればきりがなく、その内容も多種多様で、シャーマニズムを細かく定義化することは難しい。
 日本にもシャーマニズムは見られ、青森県の恐山のイタコ、沖縄のユタやノロをはじめとし、沖縄久高島のイザイホウ、高知県物部村のいざなぎ流などが挙げられる。日本古来の信仰体系「神道」も起源はシャーマニズムであり、邪馬台国の卑弥呼や初期の天皇もシャーマンであった。シャーマニズムは現代日本にも存在しており、戦後の新興宗教やカルト教団に受け継がれている。
 シャーマニズムは単なる原始的な宗教的形態というよりも、高度な情報化社会において歯車の一部となったわれわれ現代人に「生の全体性」を自覚させる人間としての根源的なテーマを含んでいるように思う。それは細分化された知識ではなく、知識以前の未分化の叡智であり、禅の「中心のない無限大円環の中心」、インド哲学の「ブラフマン」にも通じるものではないだろうか。

※9. 神話によるとドゥルガー神は、デカン高原の北部ヴィンディヤ山脈地方の土着神であり。「マハーバーラタ」ではヴィンディヤ山に住む処女神で、悪魔(水牛マヒシャー)を殺し、酒、肉、動物などの生けにえを好むとされた。

※10. サンタル族の叩くドラミングはきわめて複雑である。民族音楽が古典音楽よりも単純であるとは一概に言えない。

※11. 山岳ヴェッダ族は楽器をもっておらず、手拍子あるいは身体を叩くことで、歌や舞踊の伴奏とした。歌の音域は高い音と低い音の二種類しかもたないが、合唱する時には各々が別々の歌を同時に歌うので、少人数でも大人数で歌っているように聞こえる。

※12. だがロマにとって重要なのは「今」であり、古代ケルト人の持つ輪廻思想は彼らに受け継がれてはいないようである。ロマの宗教観の個人的な見解は本文に述べた通りであるが、さらに補足※4でニーチェの思想に照らし合わせてみると、彼らが人間として根源的なものと向き合って生きていることを感じずにはいられない。


















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