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roma instruments

(画像:ラジャスタン地方の民族芸能集団が使用している楽器の一部。ジャイサルメールの Desert Culture Center & Museum にて撮影。このミュージアムにはたくさんの楽器が陳列されており、どんな楽器を紹介しようかと迷ったが、スペースの都合上、今回は代表的なものを紹介するに留めた(※1)。他にも蛇つかいのジョーギーの使うビーンもしくはプーンギーと呼ばれる二管の吹奏楽器(※2)など、個性的な楽器は数多くある。【2009.6.23追記】ビーン(プーンギー)は、画像右上にあるムルリと同じものです



 今回はラジャスタン地方の音楽集団の中で、ランガと共にポピュラーであるマンガニヤールの使用楽器について少し触れてみたい。

■ カマイーチャ Kamayacha, Kamaycha
 今となっては演奏者がめっきりと少なくなった、マイルドな揺らぎのある音を出す擦弦楽器。カマンはアラビア語で「狩猟の弓」の意。弓奏楽器は中世ペルシアではカマンチェ、トルコではケメンチェ、アルメニアではキャマンチャ、エジプトではカマンジャと呼ばれ、ロマの西への変遷との関連性を感じさせるが、弓の起源を辿ると九世紀のペルシアに最初の記録があり、弓奏楽器が文明社会に出現したのは八世紀から九世紀であることから、おそらくカマイーチャはペルシアから伝わったものではないだろうか。また中央アジアのトルコ遊牧民族では、中部東部でギジャック、西部でケマンチェと弓奏楽器を呼ぶ。(カマイーチャの演奏映像はブログ過去記事『manganiyar, rajasthan folk』メイキング編(3)をご覧ください)

■ ハルモニウム Harmonium
 イギリスの長い植民地支配の十九世紀に、ハルモニウム(※3)と呼ばれるドイツで発明された手フイゴ式の簡易オルガンが伝わると、ラジャスタン地方の民族音楽にも影響を及ぼした。調性の変更が簡単で、即興演奏にも適応しやすいハルモニウムがカマイーチャに取って変わって使用されるようになった。
 このハルモニウムはリコーダーが並べられたようなパイプオルガンでなく、日本の笙のように吹いても吸っても鳴るリードが箱の中に並べられていて、基準音を取るのに非常に重宝された。インド音楽にかかせないドローン(単音の持続音)もボタンで操作でき、アーラープ(導入部)の演奏の自由度も増して、北インドのヒンドゥスターニ音楽の情感的な即興演奏的な面が、より洗練された形となってラジャスタン民謡にも取り入れられた可能性が大きい(マンガニヤールによるハルモニウムの演奏映像はブログ過去記事『manganiyar, rajasthan folk』メイキング編(4)をご覧ください)

■ ドーラク Dholak
 太鼓はリズムをキープするという感覚で考えられているが、民族音楽では歌も旋律楽器もリズム感がないと表現できない。すなわち太鼓は「律動的バリエーション」を表現するためにあり、しばしば「時間的メロディ」も表現する。ドーラクはまさにそれを体感出来る両面太鼓である。片側の鼓面が若干大きく、内側からコールタールに混ぜ物を加えたり重りを張る。もう片側の鼓面は全くシンプルである。ドーラクは「ドール」の小型という意味で、またドーラクの小型は「ドールキ」という。鼓面にはマサラ(数種の香辛料を配合した食材とは別のもの)と呼ばれる、米の糊やタリマンドの樹液、マンガンなどの金属粉を混ぜた黒いペースト状のものが塗りつけられており(※4)、豊かな倍音を響かせる。
 エジプト南部のナイル川上流のアラブ農民サイーディーの音楽でも両面太鼓は使用されるが、西アジア名のダブルと呼ばず、インド名のドーラ(ドホッラ)と呼び、また大型の花杯型片面太鼓タブラ・バラディも使用する点も興味深い。

■ カルタール Kartal
 フラメンコとの関連性から見ても気になる二枚の笹蒲鉾型の打楽器。ラジャスタン地方では楕円形もしくは長方形の木製の板であるが、北インドでは拍子木にヤモリの顔が彫られ、木枠に小さいシンバルが付いているものもあり、チプリと呼ばれている。また中央アジアにもタシュ・カイラークと呼ばれる笹蒲鉾型の打楽器がある。
 ランガやマンガニヤールがカルタールを両手に掲げて演奏する様は、南スペインのバイラオーラがパリージョスを操る姿と重なり、インドとフラメンコの繋がりを感じさせるものである。
 日本でもカルタールに似たものとして「四つ竹」が挙げられる。四つ竹は、歌舞伎や琉球古典舞踊の花笠、郷土芸能の春駒、各地の民謡等で使用され、井原西鶴の「大鑑」によれば、一六五二年に長崎の一平次という男がはやり歌の拍子に用いたのが初めとされている。また放下僧と呼ばれる漂泊の芸能者や「日本のジプシー」と称されるサンカ(山窩)も門付け芸に四つ竹を使用しており、ラジャスタン地方の放浪芸とも重なって興味深い。

■ 口琴 Jew's harp
 口琴は金属や竹、木、木の皮、骨などで出来た弁を口にくわえて振動させて音を出す一種の体鳴楽器である(これは中国における楽器の区分であり、厳密には区分が難しいとされている)。アニメの「ど根性ガエル」の主題歌や、ザ・フーの「ジョイン・トゥゲザー」で聴くことのできる、あのビョ~ンとした音である。小さくてシンプルな構造だが奥の深い楽器で、製作にも演奏にも高度な技術を要する。
 口琴は世界中に分布していて、特に東アジアで多く使われているが、ジプシー音楽の盛んなハンガリーやルーマニアでも使われていて興味深い(ヨーロッパにはウラル・アルタイル系のフン人が伝えたという説がある)。北インドでの素材は鉄で出来ており、モルチャング morchang と呼ばれ、私が観たマンガニヤールのセッションにおいては、打楽器ドーラクとの合奏はプログラムの前半と後半を繋ぐ楽曲として重要な役割を果たしていた。モルチャングはリズム楽器的な扱いとされているようだが、ソロ楽器としても充分に存在感があり、ジャイサルメールの民族資料館において、目の前でスタッフによるモルチャングの即興演奏を聴かせてもらった時には、倍音成分が多い豊かなその音色とその演奏技術に舌を巻いた。それはまるで北アジアにおける喉歌「ホーミー」を彷彿させるものでもあった。
 口琴のルーツを紀元前のモンゴルとする説もあり、当初はシャーマニズムと深い関わりを持っていたとされている。口琴を奏でることによって口腔に「あの世」に通じる異空間を作り出し、音の持つ波動や竹などの素材の霊力により、場を鎮め、神を呼び寄せ、魔物を浄化する効果をもたらすと考えられていた。インドの伝来当初にシャーマニズムの道具として使われていたかは定かではないが(女性や子どもの楽器および玩具であったという説あり)、たとえばシャーマン的要素の強い原始的なカーリー信仰で使われたとしても肯ける話ではないだろうか。シャーマニズム的な魅力も相まって、小さくて携帯性にも優れていたことから、ロマが口琴を放浪の友として愛用していた姿が目に浮かぶようだ(※5)。


(次回予定『インド音楽理論について少し』/毎週木曜更新)
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※1. 画像中の弓奏楽器サーランギはその魅力的な音色から、しばし美しい女性の歌声に形容される。スィンディー・サーランギ(スィンド族型)、さらに小型のグジャラータン・サーランギ(グジャラート族型)、ジョギー・サーランギ(修行僧型)などの種類を持つ。楽団によってはサーランギ系以外の弓奏楽器サーリンダー(ランガが好んで使用)、サローズを用いたり、ドーハーと呼ばれる武勇伝を歌いながら巡歴するアジメール地方の吟遊詩人チャラン Charan はラワージ(ターン・セン・ラバーブ派の生楽器)、グジャール族はジャンタール(古代ヴィーナの変種)という非常に興味深い撥弦楽器を用いる。
 クルト・ザックス Curt Sachs によると、サーランギは中央アジアの西部から伝わったとされ、原始的なものがコブズとして、キリギス人やダッタン人(タタール人)の間で今日も使われている。

※2. ふくらんだ瓢箪に二本のシングルリードが取り付けられたこの楽器は、他にヒンディー語でトゥーンビー(トゥームリー)、パーングラー、サンスクリット語でティクティリー、タミル語ではマグディとも呼ばれている。鼻から息を吸いながら口の中に貯えた空気で笛を吹き、その空気がなくなる前に肺から息を出し、笛の中に吹くと同時に口の中に貯え、これを間断なく繰り返して常に同じ強さで笛を吹くといったサーキュラー・ブリージング(循環呼吸)を用いる。ローランド・カーク、ソニー・ロリンズ、デューク・エリントン楽団のハリー・カーネイなど、ジャズ・ミュージシャンの管楽器奏者にもよく使われる奏法である。
 南インドでは、蛇つかいは「蛇に好まれるラーガ(プンナガ・ヴァラーリー)」の中からいくつかの音を使うという。プンナガ・ヴァラーリは、上行:Bb, C, Db, Eb, F, G, Ab, Bb / 下降:Bb, Ab, G, F, G, Eb, Db, C の音階を持つ(便宜上 KEY=C にて表記。インド音楽理論については次回記事で触れます)。北インドでは、かん高い音で短い定旋律を鳴らすことが蛇の注意を引き起こすと言うが、蛇には聴覚がないので、蛇は蛇つかいの体の動きに反応しているに過ぎない。
 クルト・ザックス Curt Sachs によると、プーンギーはヨーロッパのフリギア旋法に似ているハヌマトディ旋法を用いる。シングル・リードの楽器はインドより東の国にはまれにしか見られない(たとえば中国雲南省のドアン族のひょうたん笙「ブライ」)から、プーンギーは西方からの影響のものだと考えられている。

※3. ブログ過去記事では「ハーモニウム(英語発音)」と表記していたが、以降はインドで使われている「ハルモニウム(ドイツ語発音)」に変更したい。
 ちなみにこの据え置き型のオルガンは、大きく分けて「吸気式ふいご」と「吐気式ふいご」の二種ある。北アメリカでは吸気式を「リード・オルガン」、吐気式を「ハーモニウム」と呼んで区別してきたが、ヨーロッパ諸国においては、どちらも区別なく一律「ハーモニウム」と呼ぶという習慣の違いがある。
 ヨーロッパ伝搬の楽器であるにも関わらず、今や世界のハルモニウム製造の中心地はコルカタ(元カルカッタ)になっている。

※4. 鼓面に塗られるものとしては、ヒンディー語でスィヤーヒー、タミル語でソールと呼ばれるマサラと同素材の混合物もあるが、これらがマサラと同じものかは未確認である。

※5. 口琴は日本やアジア圏とも密接な関連性があり、さらに深く追求すると面白いテーマなのだが、前回の追伸と同じ理由につき、今回は概要を述べるに留めておきたい。

roma morchang

(画像:映像作品「manganiyar, rajasthan folk」の未発表映像より。口琴(北インドではモルチャング morchang と呼ばれる)を奏でるマンガニヤールのポーテ・カーン氏)



 ブログ過去記事『manganiyar, rajasthan folk』メイキング編(1)でも簡単に触れているが、インド・ラジャスタン地方には数多くの民族芸能集団がいて、前述した踊り子のカルベリアはもとより、蛇つかい、うた、踊りなどの門付け芸を生計とする漂泊民ジョーギー、そして超絶的な技巧を持つランガやマンガニヤールなどの楽士たち、人形つかいや絵解きをする芸人ボーパがその代表である(※1)。
 多彩なインドの音楽文化の歴史において、ラジャスタン地方がもたらした功績は大きい。重要な楽士たちは、好戦的で勇敢なラージプート族に仕えていたが、その支配者の宮廷では芸術家に対する保護が比較的際立っていた。こうしたことから、この地域では重要な音楽理論の諸文献が生まれている。そして彼らが魅力的な表現者であることは、ラジャスタン地方が「砂漠の地」であるという地域的要因も大きく影響しているように思う。

 砂漠に暮らす人々は、肥沃な土地で農耕を営む人々と比べるとリズム感が根本的に異なっているように思う。古くから農業を生活の糧としてきたわれわれ日本人や東南アジアの人々は、四季の変化を植物の育ち具合や種蒔きや収穫の時期と結びつける。一年を一周期とする大きな季節のリズムによって生活全体が営まれている。そして定住化することで周囲との関係にも細心の注意を払い、自己主張はなるべく控え、個人の力量や才能をあまり重要視せず、家柄や血筋の方を大切にする。
 こうした環境の中では、ダイナミックで飛び跳ねるようなリズム感が育つ可能性は少ない。それよりもゆっくりと次第に変化する四季のように、また少しずつ成長する植物のテンポ感や、繊細でひたむきな農作業に似たリズム感の方が生活に合っている。そして楽曲の構成においても、作物が時間をかけて育つ過程を見るように、全体として緩急に富んだメリハリのついた構成、まとまった形式が自然として受け入れられている。日本においては、箏曲、三味線音楽、尺八といった芸術性の高い伝統音楽になるほど、この特徴は顕著に見受けられる。

 一方砂漠に暮らす人々は、一年周期の植物を相手とする生活よりも、動物を生活の糧とすることが多い。山羊やラクダなどの動物の育成は、種蒔きから収穫までのように一斉に行われるものはなく、仔を産み、ミルクを採り、常に世話をしなければならない。時期によっては漂泊する必要にも迫られ、仕事のテンポになる単位は農耕民よりも短い単位、つまり「速く」、「臨機応変に反応する動物的なリズム」と言えよう(※2)。彼らは個性的で激しい表現を求める。個人の力量や才能は、家柄や血筋よりも大切であり、表現の原則としては調和や釣り合いよりも、コントラストや急激な変化を求める。楽曲の構成においては、予定調和でいかない砂漠の生活のような短いフレーズの繰り返しが多く、いつ始まっていつ終わるのかまるで見当がつかないような形式が多い(※3)。

 インターネットが普及した現代においては、その生活形態も純粋な「農耕民文化」とか「牧畜民文化」などと単一的に捉えることが難しくなってきている。どの民族もいろいろな生活形態の混合であり、また歴史的な変遷や外部からの影響が、それらを一層複雑なものにしているからである(※4)。とくに商業音楽や芸術音楽においては多種多様な影響が見受けられ、もはや一元論で語ることはナンセンスである。しかし土着的な生活に密接し伝承されてきた民族音楽という側面では、単一文化論で語ることがまだ許される面もあるのではないだろうか(※5)。

 実際、放浪ジョーギーたちの唄を聴くと、砂漠の厳しい環境で鍛えられた喉からは、まさに力強い歌声と跳ねるようなリズムを感じるし、ランガやマンガニヤールの演奏においても、両面太鼓ドーラクとカルタールの織りなすリズムは、激しく感情的である。それはまるで不毛で厳しい環境に戦いを挑むかのような闘争本能にすら思える(※6)。
 この砂漠特有のリズム感が、西へと向かったロマの体にも染みついていることは想像できる。ルーマニアやハンガリーでは、民族音楽と共に昇華した形でそれは顕著に見られ、狂ったような速度で展開されるアグレッシヴな曲調は、まるで世間の嘲笑や軽蔑に対する彼らの心の叫びであり、また偏見からの逃避願望であるかのようにも思えてしまう。
 スペインのカンテ・フラメンコにおいても、魂の奥底から響いてくるような太い地声(カンテ・ホンド)や、恥も外聞も気にせずに表現する情感は、砂漠のような厳しい人生との闘いを感じさせるものである。力強さと繊細さと狂気が同居しているジプシー音楽に、私は人生の根源的な不条理を照らし合わせ、引き込まれずにはいられない。


 不条理な創造は、つづいて、その深い無用性を示すものでなければならぬ。知力と情熱とが混じりあい、たがいに運びあっている、不条理な創造というこの日々の努力のなかに、不条理な人間は、いつかは自分の力の本質をなすものをつくりあげてくれる訓練を見いだす。(カミュ『シューシュポスの神話』)


【追伸】本文では触れることが出来なかったが、絵解きのボーパ、動物芸(熊・猿・蛇)、籠つくりなどもロマの変遷を辿るのに重要な要素である。同時にそれは東南アジアや中国の民間芸能、古来の日本の放浪芸、サンカ(山窩。「日本のジプシー」と呼ばれた放浪民)の生業などと重なる面も多く、大変興味深い内容なのだが、今回のトピックスの意図から外れてしまうので、いつか機会を見て触れられれば思う。


(次回予定『マンガニヤールの使用楽器』/毎週木曜更新)
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※1. 彼ら民族芸能集団は、ジャジマーンと呼ばれるパトロンたち(ラージプート王家の氏族的系譜、またはその他のカースト集団など)の庇護を受けながら、芸能活動をして報酬を得て生活の糧としていた。現在では観光客を新たなパトロンとして生き長らえてきているが、芸能本来の儀礼的な側面はだんだんと形骸化し、簡略化されてしまっている。彼らの表現に対する魂までもが形骸化してしまわぬよう、我々は正しい認識や尊敬の念を持って、彼らと接することが大切ではないだろうか。

※2. ちなみに騎馬民族系のリズムは三拍子系が多い。これは馬に乗っている時のリズム感に基づいているものである(だが古い蒙古族は四拍子系であり、これは長い距離を移動するため、馬の乗り方に違いがあるとされる)。農耕民族や古い蒙古族のように、常に体重をどちらかの足で支えている動きは、躍動的な三拍子のリズムにはなり難いようである。インドから西に向かったロマはキャラバンを使って移動したようだが、彼らは何拍子のリズムを感じていたのだろうか。徒歩の二拍子か、牽引するラクダや馬系の動物の三拍子か、それとも繋がれた荷車に揺られて別の拍子を感じていたのだろうか。興味深い話である。
 ちなみにフラメンコの基本リズムの十二拍は「三拍・三拍・二拍・二拍・二拍」で、騎馬民族系の三拍子と砂漠系の二拍子が混合しており、さらに二拍子の部分は全てオフビートである。これがロマが生み出したフラメンコ独特のリズムであるとしたら、彼らのリズム感覚の多様性に驚きを隠せない(リズム感は天性のものであり、後天的に自在に変えることは難しい)。特にオフビートは黒人系のビートであり、彼らがアラブやオスマンの変拍子だけでなく、アフリカの影響を受けている証拠にも繋がるのかもしれない。

※3. アニミズムにふさわしい自然に囲まれた我々の生活とは異なり、不毛な砂漠では、乾いた不安によって思考が終わりのない想念を呼び起こし、人は湧き上がる想念を絶つために抽象思考、幾何学的世界を作り上げたのかもしれない。それは短いフレーズを繰り返す音楽だけでなく、イスラム圏ではアラベスク模様となって昇華した。砂漠の生活における「繰り返し」は、われわれが思っている以上に心地よいものである。イスラムはその繰り返しの中に、絶対的な存在の象徴としてアラーを求めたのである。

※4. ラジャスタン地方の芸能者たちも、芸能だけで食べていけるのはほんの一握りの人たちだけで、後は物乞いを始めとする何らかの仕事を兼業しているのが現実である。たとえばジョーギーは小作農や石切の人夫役、カルベリアは竹の伐採と石臼つくりなどにも従事している。砂漠においても農耕民文化の影響は多少なりとも受けていると考える方が自然である。

※5. これは私の個人的な想いである。世界各地の民族音楽が現代まで全く変化しせずに伝承されているかといえば、そうとも言い切れない。長い伝承の途中に創造的な衝動のために変容したり、勘違いで記憶されたものが伝わったりするほか、伝承者の美的な価値観の影響や、ほかの音楽様式の影響も受けたりと、時の変遷と共に様々な変化は生じているだろう。だが民族音楽はこのような民族共同体による再創造を繰り返して、今日まで生き長らえてきたこともまた事実なのである。その民族音楽こそが、その土地に暮らす(さらに国を離れて暮らしている)人々にとってのアイデンティティの拠り所として、重要な役割を担っている。情報化社会がさらに発展し国境の概念がより希薄になれば、その重要性がますます見直されてくるのではないだろうか。

※6. 「道の手帖:サンカ 幻の漂泊民を探して/河出書房新社」における評論家の堀切直人氏のノマドの分類は興味深い。文中の狩猟採集民は、ラジャスタン地方の漂泊芸人に置き換えられる面もあろう。
 『同じノマドでも遊牧民と狩猟採集民とは、まったくタイプを異にする別人種である。遊牧民は、畜獣を支配、統制する生活形態ゆえに、誇り高く尊大で、戦争機械を発明するほど攻撃的で、農民や狩猟採集民を軽蔑している。一方、狩猟採集民は、日々の食料として野の獣を狩り草木果実を採集するのみで、自然を支配したり統制したりする野心を少しも持ち合わせていない。彼らにも棲み分けのための縄張り意識はあるが、定住民とは違って一定の土地に根をおろしたりしないから、定住民の心を虜にする所有欲や領土拡張欲とはおよそ縁がない。彼らは遊牧民のように攻撃的でも尊大でもなく、平和愛好的で謙虚であり、農民のように富の蓄積に執着せず、その心は晴朗であり、子どものように無邪気である。(中略)狩猟採集民は、これまで長らく、不安定と混沌の世界に、欠乏の恐怖に悩まされながら生きていると考えられていた。ところが、調査が積み重ねられ、彼らの生活の実状が知らされるようになるにつれて、物質面では貧しさの極みにあるような彼らは、内面においては、所有欲や支配欲に汚染されない、安らかな世界に生きていることが明らかになってきた』

spanish guitar session - Granada, Spain from "One Step Beyond"

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(映像:映像作品「One Step Beyond」グラナダ編より(悪状況での撮影のため、映像が暗い点はご了承ください)。アルハンブラ宮殿を一望できるサン・ニコラス展望台で、二本のスパニッシュ・ギターによる演奏に出くわした。8ビートのポップで即興的な演奏(パコ・デ・ルシアの「Rio Ancho」を引用していると思われる)だが、二人の観客の打つティエンポ(表拍)とコントラティエンポ(裏拍)のパルマスのコンビネーションは、シンプルな楽曲を立体的に彩っていた。フラメンコのバイレ(踊り)はマドリーで実際に観たことがあるが、コンパス(リズム・サイクル)のアクセントが複雑で、練習なしでいきなりパルマスを合わせることは難しい(※1))



 フラメンコは、インドの源流でカタックやグーマー、カルベリアという原液を注がれ、アラブのフィルターを通して、十八世紀にアンダルシア地方の音楽とジプシー音楽が融合して完成されたとは言えないだろうか。

 フラメンコにおけるアラブのフィルター(※2)とは手拍子にあるように思う。手拍子を打って民謡を歌うという行為は、我々日本人に取っては珍しくないが世界的に見ればそれほど多いわけではなく、古代エジプトにその習慣があったとされている。
 エジプトでは手拍子のことを「タスフィーク」と呼び、指をわずかに開いたままで手を打つこともあれば、両手を上下ないし左右の方向に打ち合わせたりと、さまざまなタイプがある。一般に強拍節を強調するヨーロッパのリズムとは異なり、タスフィークは複雑なリズム構造が特徴的である。それは休符が弱拍節を生ぜしめ、時には柔軟で感動的なポリリズムを形成するリズム構造である。このアクセントを作り出すのはテンポと音色の交換であり、その力と色彩を付与するために旋律をある程度重ね合わせるという方法が取られている(※3)。また小泉文夫氏によると、エジプトのハマーム村ではカファーファ Kafafa という民謡が歌われており、男たちが大勢集まって太鼓に合わせて激しくタスフィークを打ちながら歌うとされる(【09.8.3追記】参考音源:Celestial HarmoniesレーベルのCD『The Music of Islam』シリーズの「Vol. 2: South Sinai Bedouins」では放浪部族ベドウィンによる、そして「Vol. 3: Music of the Nubians」では上エジプトからスーダン北部に居住しているヌビア人による、太鼓と掛け合いの歌とタスフィークを聴くことができるのが興味深い)
 エジプトから北アフリカのマグレブ諸国に移動したロマなどの漂泊民が、イベリア半島から南下してきたアラボ=アンダルース音楽 arabo-andalouse(※4)における、複雑なシンコペーションを多用した洗練された手拍子を吸収した後、十五世紀初期に南スペインのアンダルシア地方に北上し、十八世紀に定住化(※5)することによって、フラメンコのパルマス(手拍子)が完成されたのかもしれない。フラメンコのパルマスは、タスフィークを起源とする可能性があるのではないか(※6)。

 ロマが到来する以前のアンダルシア地方では、賛美歌の詩編詠唱の旋律やユダヤ音楽、ビザンチン典礼歌から派生したイオニア旋法やフリギア旋法、イスラム宗教歌、モサラベ(イスラム支配下のキリスト教徒)の作曲者不詳の古歌などが根づいていた。北アフリカから(もしくは本流ルートのフランスから)移動してきたロマが、イスラム宗教歌に見いだせるモノコード(一つのコードのみからなる曲)やメリスマ(歌詞の一音節に対して複数の音符を当てはめる歌唱法であり、ペルシアのタハリールが美しい。シラブルの対語)といった、単旋律のメロディの中にある美しさを追求する東洋的要素に、アラボ=アンダルース音楽や、庶民の間に広まっていた民謡などをロマ自らの音楽性と融合させて、低音でうなるようにかすれた声で歌い、より劇的な表現力を持った「カンテ・ヒターノ」に昇華させたとは考えられないだろうか(※7)。またフラメンコ独特の「オレ」というハレオ(かけ声)は、アラビア語の「神」を意味するアッラーから来ているとも言われている。

 バイラオーラ(フラメンコの女性の踊り手)が使用するパリージョス(カスタネット)も、古代エジプト人が作ったクラッパー(拍子木。楽器のみならず狩猟の道具としても使用)やフィンガー・シンバル(指にはめて使用する木、象牙、金属製のシンバル。トルコではジル、アラブ舞踊ではサガートと呼ばれる)をそのルーツとする説もある(※8)。
「ラッチョ・ドローム」のエジプト編の映像を観れば、このフィンガー・シンバルがパリージョスにより近いものだということが理解できる。映像でのベリーダンス(※9)における力強い足のステップ、腰や手の動きからも、エジプトがインド舞踊とフラメンコの中継地点であることを感じさせられる。中世から近世に多く見られた、大道芸人集団ガワーズィー族 Ghawazee, Ghawazi の舞踊は、音楽のテンポ、ステップや腰の動きがとても速いことをその特徴としており、ベリーダンスから派生したものとされる。彼女たちは定住しないノマドのような生活をしており、ロマの生活形態や社会的立場における共通点も多く、ガワーズィー族のルーツをさらに遡ってみれば、エジプト起源のジプシー(ここではインド源流のロマと区別するために「ジプシー」を使用)に辿り着くのかもしれない。
 面白いことに「ラッチョ・ドローム」のインド編では、カルベリアたちが座って、ターリー Thali と呼ばれるフィンガー・シンバルを使用しているシーンも見受けられる。ターリーは直径5cmほどの二個一対の小型のシンバルで、フィンガー・シンバルのように互いを合わせて打ち鳴らす打楽器だが、この映像では紐をつけてダイナミックに腕を振り回して音を出している(※10)。ジャルタル Jaltal と呼ばれるウォータードラムでもターリーは使用されるようだ。また映像ではマンジーラ Manjira と呼ばれる、民謡以外に宗教儀式でも使われるフィンガー・シンバルも確認できる。他にもマンガニヤールが使う笹蒲鉾型の打楽器カルタールも(さらに中央アジアのタシュ・カイラークも)、パリージョスの使い方と酷似している。パリージョスの変遷を辿ってみても、やはりインドと繋がっているのだ。

 ロマの差別語と見なされるジプシー。その語源が「エジプトからやって来た人(エジプシャン)」であることから、ロマはエジプト起源であるという「誤説」が長年まかり通っていた。だがフラメンコのパルマスやパリージョスの源流を辿ってみると、ロマがエジプトを通過している可能性も考えられ、 さらに前述したガワーズィー族も含め、エジプト源流のジプシー(ここでもインド源流のロマと区別するために「ジプシー」を使用)が存在するのかもしれない。
 実際に非インド起源を主張するジプシーとして、コソボ戦争で有名になったアッシュカリィやエジプシャンなどがいる。アッシュカリィはロマとアルバニア系との混血児の子孫とみられ、特にエジプシャンはアレキサンダー大王に従って移民したエジプト系の末裔を自称しており、それぞれがロマとは別のグループだと主張している。またイザベル・フォンセーカの「立ったまま埋めてくれ(青土社)」によると、ロマの言語であるロマニ語を話さないジプシーとして、マケドニアのイェヴグズ、アルバニアのルリア、モンテネグロ、コソヴォ、マケドニアにいるアシュカリやマンゴーなどの少数民族もいる。

 以上のように、ロマがインドを旅立ち、エジプトから北アフリカのマグレブ諸国を経由する際に、打楽器や身体表現における音楽的影響を受け、スペイン南部のアンダルシア地方でフラメンコが完成されたのではないかという仮説を立ててみた。
 しかし相反する学説もあり、「世界の民族音楽辞典(東京堂出版)」の著者、若林忠広氏は、ロマの流鏑における音楽(インド、バルカン、ルーマニアやハンガリーなど)とフラメンコとの間に、たくましいプロ根性、ハッタリが濃縮した超絶技巧、緩急自在の飽きさせない芸風などの共通点を見出しているものの、『音楽的、楽理的に共通するものはない』とはっきりと論じている(※11)。
 若林氏の説も無視できない重要なものだが、ロマの歩んだルートの支流(コーカサス諸国からエジプトに入り、北アフリカから北上するルート)に着目すれば、ロマとフラメンコにおける音楽的、楽理的な共通項も何か見い出せるのかもしれない。フラメンコに関する歴史資料はほとんど残されておらず、口伝や直伝の模倣だけで世代から世代へと継承されてきたことも、文字や楽譜を書き残さないロマの考え方と重なるのではないだろうか。

 中世においては、世界の歴史と文化の舞台で優位を主張できたのはヨーロッパではなく、北アフリカであった。そしてその北アフリカには、器楽および声楽の模範となっているアラブ古典音楽の存在に加え、多種多様に渡る民族音楽も存在していた。そのハイブリットな音楽様式がフラメンコという芸術表現の完成にも影響を及ぼしているとは想像できないだろうか。
 フラメンコ・ギターにおけるラスゲアートやゴルペ(打撃音)を挙げてみても、そのダイナミックな奏法はヨーロッパ経由で入ってきたものと考えるよりも、リズム表現を主体としたアフリカ方面から入ってきたものと考える方が信憑性がある。さらに高弦部のトレモロと低弦部のメロディを組み合わせる奏法は、アラブの撥弦楽器ウードの奏法に影響を受けているようだ。トケ・フラメンコの完成においても、ヨーロッパ的な要素よりも北アフリカの影響を多く受けていると考える方がしっくりこないだろうか。

 今回、カルベリアとフラメンコとの関連性を導き出すために、ロマの辿った本流ルートの「コーカサス ~ トルコ ~ バルカン ~ ヨーロッパ中央」ではなく、「コーカサス ~ エジプト ~ マグレブ諸国 ~ 南スペイン」に注目し、しかもレコンキスタの流れと逆流するような少々強引な仮説としてみた。結果その仮説では、パルマスやパリージョスなどの小道具における関連性しか紐解けず、肝心の舞踊そのものの関連性を明確に論じるまでには至らなかった。その小道具においてもロマがもたらしたという決定的な証拠はなく、ベドウィンやノマドなど近隣国の別の漂泊民がその役割を果たしている可能性や(※12)、さらに(※5の後半でも触れているように)フェニキア人がパリージョスの原型となるカスタネアをすでに伝搬していたという可能性も大きい。
 通説ではカンテ・フラメンコの方が、バイレ・フラメンコよりも先に完成されたと言われている。ロマがカンテ・ヒターノを完成させた後、カルベリアを初めとするインド舞踊がどのような経路を辿って、アンダルシア地方の民俗舞踊(たとえばセギディーリャスやファンダンゴなど)と融合してバイレ・フラメンコが作られたのだろうか。つまりロマの北アフリカ経由の支流ルートにおいて、エジプトのベリーダンスとアンダルシア地方のバイレ・フラメンコに繋がる舞踊がマグレブ諸国に存在していたのだろうか。もちろんロマの影響をより強く受けているトルコのベリーダンスも重要であり、バルカンや東ヨーロッパを経由した本流ルートにおいても、バイレ・フラメンコに繋がる手がかりは見つかるだろう。ハンガリーやルーマニアの民俗舞踊、さらに都市部ではなく農村部で暮らすロマの、足でリズムを踏み鳴らし手を体で打ち鳴らす素朴な身体表現は、フラメンコに直結するものがあるように思う(参考音源:ベスト・オブ・ルーマニアン・フォーク・ミュージック(Electrecord BNSCD-8826))。

 商業主義に汚染された現在の芸能の中で、当時のロマの足跡を見つけるのはなかなか困難なことなのかもしれない。だが大通りを一歩入った路地裏で、仲間内のささやかな楽しみのためだけに表現される歌や踊りこそに、その本質が隠されているように思う。ロマの息づかいが聞こえるストリートを歩いてみなければ、実際のところは何も分からないのかもしれない。今後もさらなる探求を課題としていきたい。


(次回予定『砂漠の楽士とそのリズム感』/毎週木曜更新)
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※1. たとえばアレグリアスでは12拍を1コンパスとし、3/6/8/10/12拍を強打する。ジプシー的なカンテ・ヒターノでも使用されるブレリアスはアレグリアスとアクセントが同じだが、弱起で12拍目から始める場合が多く見られる。フラメンコがコンパスを厳守して進行していく点は、インド音楽のターラや、ペルシア・アラブ音楽を彷彿とさせる。

※2. 直接ロマに関連する内容ではないので補足に留めるが、諸説あるギターの起源においてもアラブのフィルターを感じさせる。十三世紀に賢王(エル・サビオ)と呼ばれたアルフォンソ十世が編纂した「カンティーガ」には、二種類のビウエラ(ギターの原祖。後述)の元になるものが記載されており、一つはギターラ・ラティーナ、それからもう一つはギターラ・モリスカ(ムーア人のギター)と書かれてある。ギターラ・ラティーナは胴体の横が今のギターのように瓢箪型に凹んでおり、それに対してギターラ・モリスカは胴体がいわゆる普通の西洋梨のような形をしていて、イタリアを中心としたヨーロッパのリュートやアラビアのウードと似たような形をしている。その後シンプルな構造がヨーロッパで発達し、このギターラ・ラティーナやギターラ・モリスカが、当時のヨーロッパの楽器たとえばヴィオルやフィドルなどと融合して、ギターの原祖であるビウエラ・デ・マーノとなってスペインに広まった(注:この一文各諸説有り)。ビウエラに関する最初の文献の記述は十五世紀のアラゴン王国(イベリア半島北東部に存在したキリスト教王国)に見られる。十六世紀のスペインにおいてビウエラは、ギリシア神話に登場する音楽の神としばしば混同されるオルフェウスの楽器リラと同一視され、重要な楽器と見なされていた。このビウエラがリズム主体のスペイン舞踊に合うように改良を重ね、巻き弦の発明を経て、十八世紀後半には六弦に丸いサウンドホールといった今のギターの原型となり、農民の民謡や踊りの伴奏などに用いられるようになった。そして十九世紀半ばには、アントニオ・デ・トーレス・フラドによりクラシック・ギターが開発され、一八六七年にはトーレスによるフラメンコ・ギターの試作が記録されている。
 フラメンコ・ギターの奏法においては、北アフリカのみならずブラック・アフリカを思わせる音楽表現(ラスゲアートやゴルペ。本文後半参照)も見られ、ロマの「エジプト~マグレブ諸国~南スペイン」の放浪ルートを裏付ける理由の一つとなるのかもしれない。

※3. タスフィークのリズムのコンビネーショは多種多様であり、数えあげるときりがない。特に大衆的なものとしては、ワーヘド(古典アラビア語:ワーヒド)、ワーヘド・ウェ・エスネーン(古典アラビア語:ワーヒド・ワ・イスナイン)、ワーヘド・ウェ・ヌスフ(古典アラビア語:ワーヒド・ワ・ヌスフ)、ハムサ、それに8分休符またはシンコペーションではじまり、旋律ないしリズムに変化をつけるために長延音を用いるワハダが挙げられる。

※4. アラボ=アンダルース音楽は、アラブがイベリア半島を支配していた九世紀のアンダルシア地方のコルドバで、アブドゥル・ラハマン二世がウマイア朝のさらなる繁栄のために、バグダッド出身の音楽家ズィリヤーブ(シルヤブとも表記)Zyryab を迎え、宮廷音楽としたのが始まりである。その後もアブドゥル・アズィズやイブン・フィルナースらによってイベリア半島や北アフリカのマグレブ諸国(モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビアなど)で発展し、十二世紀にサラゴサ出身でイスラム哲学者であるイブン・バーッジャによって完成した。十三世紀以降は再び北アフリカに持ち帰られ、各国で独自の発展を成した。

※5. レコンキスタの後、アラブ人のみならずセファルディム(スファラディとも呼ばれるスペイン系ユダヤ人)さえも締め出された。イスラム教徒とキリスト教徒の仲立ちや潤滑油の役割を果たし、文明・文化の伝達役であった彼らが追放されたことで、結果的にスペイン経済は没落の道を歩むこととなった。放浪していたヒターノ Gitano(スペインにおけるロムの呼称)は官憲たちに法的に迫害され続け(一四九九年からカロルス三世がジプシー法を廃止する一七八三年までに、ロマの服装、言語、慣習を禁止する法令が何度も発令された)、セビージャのグアダルキビル河口近くにジプシー社会を形成したり、洞窟にも住みついたりもした。ヒターノたちが携えていた鍛冶、鋳掛などの技術が、農民の多かったアンダルシア地方では重宝され、さらに彼らの持つ自由奔放さや反逆精神を土地の人たちは受け入れた。ヒターノもこの地に伝わる歌や踊りを次第に覚え込むようになり、そこに放浪で培った彼ら独自の要素が融合して、彼らが定住化していた十八世紀後半にはカンテ・ヒターノが確立された。
 インドから始まったロマの長い放浪旅は、この南スペインを一つの終着地点(理想郷)とし、土地の人に受け入れられ定住化することである種の精神的なゆとりが生まれ、より芸術性の高い音楽としてフラメンコという形に昇華されたのではないだろうか。十九世紀に入ると仲間内だけのものだったフラメンコが「見せる」芸術と発展し、一八四二年にはフラメンコをアトラクションとする酒場「カフェ・カンタンテ」が誕生、その後マドリーやバルセロナなど国内の主要都市にその芸術は拡がっていくことになる。

※6. 厳密にいえば、タスフィークとパルマスの打ち方は異なる面もある。タスフィークは中指の先から手首までを、左右ぴったりと合わせて打ち、広い面積を使うことでたくましい豊かな音になる。エチオピアやスーダンにも共通した打ち方が見られる。一方パルマスは、セコと呼ばれる、左右の手をXのように斜めにして部分的に合わせて、非常に甲高く乾いたはっきりとした音を出す打ち方となる。拍のテンポを考慮しなければ、日本の手拍子の打ち方もパルマスに近いものと言えよう。
 しかしパルマスには、歌手が歌を歌っているときには邪魔にならないように、タスフィークのように手の平を重ねて湿った音で打つソルダと呼ばれる打ち方もあることから、タスフィークとパルマスの関連性はやはり気になるところである。

※7. フラメンコは大きく分けて「カンテ(歌)・フラメンコ」「バイレ(踊り)・フラメンコ」「トケ(演奏)・フラメンコ」があり、「カンテ・ヒターノ」は「カンテ・フラメンコ」の一種。
 フラメンコで使用される旋法は、教会旋法のフリジア旋法 Phrigian(T - m2 - m3 - P4 - P5 - m6 - m7)に長3度の音を加えた旋法(T - m2 - m3 - M3 - P4 - P5 - m6 - m7)であり、現在のコンポジット・モードでは「スパニッシュ・8ノート・スケール」と呼ばれている。理論として確立されたのは一九三〇年代と割と新しいものなので、理論化される以前にロマが自らの感性で生み出した旋法なのかもしれない。

※8. しかしクルト・ザックス Curt Sachs によると、パリージョスの原型であるカスタネア(栗型カスタネット。ギリシャ語でカスタネアは「栗」を表す)はエジプトで使用されていたが、紀元前十世紀前後のフェニキア(現在のレバノン周辺)からやってきたものとしている。当時アンダルシア地方のガディール(現在のカディス)はフェニキアの植民地であったことから、ロマが南スペインに入るかなり以前から、すでにカスタネアがアンダルシア地方で使われていた可能性も否定できない。実際に古いアンダルシア民謡ではパリージョスの使用が一般的であったことから、ロマがパリージョスをもたらしたと早急に結論づけるのは危険である。当時のカンテ・ヒターノにおいては、パリージョスよりもピートス pitos と呼ばれる指鳴らしが多く使われていた。
 バイレ・フラメンコにおける打楽器は、グアヒーラス、セヴィジャーナス、ソレアレス、スィギディージャスではパリージョスを用い、ダンサ・モーラやサンブラのようなアラブ音楽をイメージした舞踊ではフィンガー・シンバルを用いる。
 パリージョスには木製のグラナディージョ、布製のテラ、合成樹脂製のフィブラの三種類があり、利き手に高音、反対の手に低音のものをはめて使用する。パリージョスはフラメンコ以外にも、一七八〇年に創始された民俗舞踊ボレロでも使用される。

※9. アラビア語でラクス・シャルキーと呼ばれ、「東方の踊り」の意味を持つベリーダンスは、イスラム時代以前のエジプトより口承に基づき伝授されてきた。その起源は諸説存在するが、地中海世界、中東、アフリカと関係があるという証拠が多く挙げられている。
 古代においては、当初、踊りは宗教儀式と密接に結びついていた。この骨盤を激しく振る踊りは生殖を強調し豊饒を祈願する、多分に宗教儀式の強い踊りに源を発しているようだ。腰を激しく振る動きは、生殖や新たなる世代の誕生、豊饒を願う神聖な祈願の現われであったようだ。
 イスラムの時代になって家父長制が確立されていくと、女性の地位は大きく変わった。西洋人による恣意的な東洋観の影響もそこにはあるだろう。かくして、かつて腰の動きに込められた生命の誕生と結びついた根源的な意味は、やがて性的な刺激をそそる、官能の世界に制約されたものとなった。(参考文献「エジプト/鈴木八司監修(新潮社)」)

※10. ターリーを使ったカルベリアの楽曲に「テーラー・ターリー」Terah Tali があり、毎年八月から九月(インドのヴィクラム暦バードーン月)にジャイサルメールの東100kmにある小さな寺院ラームデーオラー Ramdevra で行われるラームデーオラー神の祭りにかかせない踊りとして知られている。

※11. 若林氏はその理由を『もし異国情緒が見られたとしたら、各地の民族がそれを好んだということであり、西洋文化の辺境にあること、長いトルコやアラブ支配時代の想い出などの東欧・南欧の民衆の好みのほうが重要なファクターであるはずである。フラメンコに東欧のチャールダーシュ(ジプシー音楽の一種。詳細はWikipediaにて)のようなバイオリン合奏がないのもそのことの証明である。ジプシー音楽は彼ら自身の音楽であるというよりも、彼らが生きていくためにその土地の民衆に喜ばれるように自由自在に迎合させた音楽である』としている。

※12. 十四世紀の偉大な博学者イブン=ハルドゥーンは「歴史叙説」において、砂漠のアラブ人(ベドウィン)の生活や性質を分析して『田舎や砂漠の生活形態は都会に先行し、文明の根源である』という命題を導いた。

Kalbelya on movie

(画像:トニー・ガトリフ監督作品「ラッチョ・ドローム」より。妖艶に踊るカルベリア。アフガニスタン出身の歌手スワ・デヴィ・カルベリアが、この映画でカルベリア役を演じていた。「シルクロードの十字路」とも呼ばれるアフガニスタンは、東南部はインド音楽文化圏、西部と東北部はペルシア系音楽文化圏に属する)



 インドのラジャスタン地方には現在二四〇近い部族が暮らしているが、ロマの音楽起源という観点においては、特にジョーギーとそのサブカーストであるカルベリアに注目している(その他の重要な音楽芸能集団についてはブログ過去記事をご参照ください。『manganiyar, rajasthan folk』メイキング編(1)。今回から二回に渡って、このカルベリアとインド国内の舞踊との関連性、そしてフラメンコとの関連性について私説を交えて論じてみたい。

 カルベリア Kalbelya, Kalberia はラジャスタン地方の民俗舞踊(※1)の一つである。古典舞踊(※2)が、「ナーティヤ・シャーストラ」NatyaSastra などの理論書を大きな基盤としているのに対し、民俗舞踊は理論にとらわれない土着的な踊りをその特徴とする。

 ジョーギーのサブカーストに属するカルベリアは、ラージプートを祖先と考えおり、激しい旋回とアクロバティックな踊りを特徴とする。その妖艶な舞いは雌の蛇が交尾する瞬間を表現しているとされ、踊り子たちは踊りの最中にトランス状態に陥り、自分の身体に蛇が宿ったと感じるといったトーテミズム的な側面を持つ(※3)。黒を基調とした民族衣装はエレガントで小さな鏡片を散りばめたアクセサリーと極彩色の刺繍が施されて実に美しい。激しい旋回を繰り返すとスカートの刺繍がまるで日本の独楽のように豊かな色彩に変わり、ファッション的にも魅力のある踊りである。通常二人一組で踊り、別の一組と交互に入れ代わりながら踊りは進行していく。ひとりで踊る場合もあるようだ。

 カルベリアに似ているラジャスタン地方の民俗舞踊にグーマー Ghommer がある。ビール族の踊りであり、ジャイプールの王室と密接な関係を持っていた。グーマーの名前の由来は女性のスカート、ガーグラ ghaghra から派生しており、カルベリアと同様に激しい回転の踊りを特徴とするが、カラフルな衣装を纏った踊り手が数人で輪になって優雅に色彩の美を表現し、時計回りないし反時計回りに踊るという点でカルベリアとは異なる。どことなく日本の盆踊りを思い出させる面もある。このグーマーを中東(特にトルコ)のベリーダンスと関連づける見方もあるようで、ロマの変遷と照らし合わせても興味深い(※4)。

 古典舞踊においても、インド北西のウッタル・プラデーシュ州のカタック Kathak(厳密にはその流派の中のジャイプール派)が速い旋回を特徴としており、カルベリアとの共通点を見い出せる。
 しかしそもそも古典舞踊は、神に捧げる踊りであり、純粋舞踊の「ヌリッタ」と、物語や情景、特定の神への思いや祈りなどを表現する「ヌリティヤ」の二つで構成され、日々の厳しい練習によってセンスや技術をどんどん研ぎ澄ませていくというストイックな側面も持つ。美しい衣装、速い旋回、バングル(足首に巻く真鍮の鈴の束)など、表層的には民俗舞踊との関連性は顕著に見えるが、古典舞踊の踊りの背後にある精神性、物語性、表現力は、神に近づくためにより高度に洗練されたものなのである(むろん古典舞踊もその発展の段階においては、民俗舞踊に影響された側面もあろう)。

 情感的なカルベリアの踊りをフラメンコのルーツとする見方もあり、トニー・ガトリフの映画「ラッチョ・ドローム」でも、ぞれぞれをジプシー音楽旅の始点・終点として美しく描かれていた。
 インド古典舞踊のカタックにおいても、激しく細かくステップを踏みながら、フレーズの終わりのサム(拍子の一拍目)で急にポーズを取って止まり、片手を前に片手を後ろに伸ばして美しい姿勢を見せるところは、実にフラメンコ的である。
 また多くのインド古典舞踊や民俗舞踊において、力強い足のステップを使うことや、手の動きで感情を表現するところは、それぞれフラメンコの「サパテアード」や「ブラセオ」を思い出させるし、バイラオーラ(フラメンコの女性の踊り手)のファルダ(スカート)が「ブエルタ(回転技法)」で華麗になびく様は、インド舞踊における旋回表現を思い出さずにはいられない。
 そしてバイラオーラの表現が最高潮に達したとき、彼女は踊りを意識する領域を飛び越え、一種のトランス状態に入ると言われるが、それはまさにカルベリアの体内に蛇が宿る瞬間の、突き抜けた領域すら思い出させる。
 さらに(下手の横好きだが)最近フラメンコ・ギターを弾き始めて感じたのは、右手のラスゲアードの手の動きは、バイラオーラのそれとまさに重なるということだ。演奏しながら踊っているかのような高揚感に包まれ、フラメンコの芸術性の完璧さを身をもって実感した。このラスゲアードの手の動きは、インド舞踊のそれによる感情表現にも通じているのではないかと思えてくる(※5)。

 ロマは十世紀から十一世紀前半にかけて、インドのラジャスタン地方から移動し始めたという説が有力視されている。古典舞踊のカタックは十一世紀から十二世紀のムガル王朝の時代に洗練され宮廷舞踊となったが、それ以前のまだ土着的要素が強かった初期のカタックや、グーマーやカルベリアなどの民俗舞踊がチャンポンになって、ロマによって西に運ばれていった可能性も考えられる。
 だがインド舞踊とフラメンコをそのまま直結して考えるのは、少々無理があるようにも思う。スペインの中世は、ウマイヤ朝の八世紀からレコンキスタ終焉の一四九二年、ナスル朝滅亡までの約八〇〇年間に渡って、アラブ世界に支配されてきた歴史があるのだ。フラメンコは、インドの源流でカタックやグーマー、カルベリアという原液を注がれ、アラブのフィルターを通して、十八世紀にアンダルシア地方の音楽とジプシー音楽が融合して完成されたとは言えないだろうか。


(次回予定『カルベリアとインド古典舞踊、そしてフラメンコ(2)』/毎週木曜更新)
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※1. ラジャスタン地方の民俗舞踊にはカルベリアの他に、グーマー Ghommer、テラ・タリ Terahtali、ファイア・ダンス Fire Dance、チャリー Chari、カスプトリ Kathputli、カッチ・ゴディKachi Ghodi などがある。

※2. バラタナティヤム Bharatanatyam、カタカリ Kathakali、カタック Kathak、マニプリ Manipuri の4つが、インドの四大古典舞踊とされている。

※3. インドの部族民の舞踊は、カルベリアのようにトーテミズムに基づいた動物の舞踊が目立つ。たとえば、オリッサ州のジュアング族やムンダ族には、熊の踊、クジャクの踊、ハトの踊、カメの踊、ブタの踊といった豊富な舞踊のレパートリーが見られる。

※4. トルコには、メフレヴィー派やベクタシュ派によるスーフィズム(イスラム神秘主義)の儀式で行われた「セマー」と呼ばれる旋回舞踊があり、またエジプトにも同じくスーフィズムによる「タンヌーラ」呼ばれる旋回舞踊があるが、インドの旋回舞踊との関連性は不明である。
「世界舞踊史(音楽之友社)」でクルト・ザックス Curt Sachs は旋回舞踊について、『豊饒の力が、彼から溢れ出るのではなく、彼を捉え、肉体的な限界を除き、意識を消し、そして神の心を注ぎ込む生殖力を待ち受けている。旋回舞踊は信仰的な踊りの最も純粋な形式なのである』としている。

※5. またフラメンコは、その苦しそうなうたい方、激しいリズムとダイナミクス(強弱法)から、しばしば日本の三味線音楽の「新内節」とも比較される。フラメンコでは、心変わりした女をなじる男心や、つかの間の愛におびえる傷つきやすい恋心をうたっており、新内では、道ならぬ恋ゆえの死出の旅や、愛のための自己犠牲を語っている。どちらも中心のテーマは「見果てぬ夢」であり、「満たされぬ愛」である。

roma in Italy

(画像:イタリアのローマの街中で遭遇したツィンガロ Zingaro。ツィンガロとはイタリアにおけるロム(ロマの単数形)の呼称(※1)。【左】コロッセオ前にて。喜捨用の空き缶を鳴らしながら歩くその様は、一種呪術的な雰囲気も醸し出していて不気味だった。映像作品「One Step Beyond」ローマ編より(ブログ過去記事にリンク)/【右】ナツィオナーレ通りで物乞いをする傴僂(せむし)のツィンガロ。この後スペイン、ポルトガル、フランスのストリートで多くのロマと出会い、その都度言いようのない複雑な感情に囚われた)



 さてはじめにロマの流鏑の歴史について述べたい。ロマの移動は十世紀から十一世紀前半にかけて、インド北西部のラジャスタン地方から始まり、その多くが西を目指したというのが最近の通説となっている。すなわち『インド ~ アフガニスタン ~ ペルシア ~ コーカサス(ロシア南部、グルジア、アルメニア)~ トルコ ~ バルカン ~ ヨーロッパ中央』と流鏑し、ヨーロッパ中央からは世界中に飛び散った(※2)。また、コーカサスからは中東やエジプトに拡散した支流も考えられている。
 中東やアルメニアにおける研究者の今後の成果には期待を寄せているし、個人的にはエジプトへの拡散に注目していて、(次回以降で触れることになるが)フラメンコのルーツを辿ってみると、エジプトから北アフリカ経由で南スペインに入ったロマもいるのでは、という少々強引な仮説も立てられるからである。

 言語面からみると、ロマが広く自分たちを指すときに使う語(本来は「人間」あるいは「夫」の意)はヨーロッパ・ジプシーのロマニ語では「ロム」rom、アルメニア系のロマニ語では「ロム」lom、ペルシアやシリアの方言では「ドム」dom という。これらはサンスクリット語の「ドンバ」domba との音声的な類似が見られ、現代インドで「ドム」dom あるいは「ドゥム」dum といえば、ある少数民族の特定グループのことを指す。
 サンスクリット語で「ドンバ」というのは「うたをうたったり音楽を演奏する低カーストの人間」を意味し、「ドム」は現代のインドでも生きている言葉である。彼らは下層のカーストに属し、籠つくり、鍛冶、金属細工、汚物処理、楽士、蛇つかい、舞踊、人形つかい、占い、予言といった、西に散らばったロマとも共通項の多い仕事に従事している(※3)。

 またロマニ語(※4)には、インドのサンスクリット語やヒンドゥスタン語に似通っている単語が多く含まれるとの学説もある。
 インド・ヨーロッパ語族にも属するサンスクリット語とロマニ語の関連性については、一七五三年にイシュトヴァーン・ヴァリというハンガリーの聖職者が、オランダのライデン大学で学んでいたときに、インド南西部のマラバル海岸からの留学生の言語をハンガリーのロマが理解していることを実際に発見した。
 ヒンドゥスタン語とロマニ語の比較研究をしたハインリッヒ・グレルマンの評価はまちまちであり、言語学的側面においてはまだ玉石混淆といった印象も拭えない。そしてグレルマンは、ロマを「ふしだらな女」「腐肉を食べる者」「人肉を好んで食する者」と、彼らの負のステレオタイプのイメージを作り出して、ハンガリー、スロヴァキア周辺のロマをさらなる偏見に陥れ、その誹謗中傷を払拭するのに一世紀以上の歳月を費やした。それはまるで「日本のジプシー」と言われた山窩(サンカ)の研究における、三角寛の茶番劇をも思い出させる。

 インド・ラジャスタン地方に残る民族芸能が、世界に散らばったロマとどのような関係性があるのかを、次回から自分なりの視点で紐解いていきたい。

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※1. ロマは欧州各国で独自の呼称を用いられ、その多くは蔑視的な意味を含んでいるとされる(主要国を抜粋。アクセント記号は略)。

・フランス:ジタン Gitan、ツィガーヌ Tzigane、マヌーシュ Manouche
・スペイン:ヒターノ Gitano、カレー Cale
・ドイツ:ツィゴイナー Zigeuner、シンティ Sinti
・イタリア:ツィンガロ Zingaro
・ポルトガル:ツィガーノ Cigano
・ハンガリー:ツィガーニ Cigany

 多くの書籍やインターネットの情報では、「ロマ(およびジプシー)」と「各国での呼称」とを同一視しているものを多く見受けるが、厳密には相違があるようである。以下にフランスとスペインの例を挙げておく。
 歴史家アンガス・フレーザー Angus Fraser によれば、ジタンは南仏に住む人々を指し、北・西フランスに住む人々はマニューシュに相当するとされている。ジタンとマニューシュは十五世紀にフランスに流入したとされる人々を祖先に持ち、これに対してロマは、カルデラーシュ Kalderash と呼ばれる集団をはじめ、東欧から数多く流入している人々を指す。
 スペインにおいては、(1)十五世紀以来存在するスペイン系ロマ(ヒターノ、カレー)(2)十九世紀後半以降に東欧から流入した人々(ウンガロス hungaros と呼ばれ、これはハンガリー人に相当する)(3)ポルトガルから流入しているポルトガル系ロマ(4)最近十五年くらいに流入している東欧系ロマ、と大きく四つに分類される。またマスコミや学術界においては「ヒターノ」から「ロマ」の呼び買えは一般的ではなく、さらに彼らは一般に「ヒターノ」という呼称を拒絶せず、むしろポジティブに捉えている。ヒターノはスペイン人のアイデンティティを持ち、東欧系ロマをルーマニア人と見なし、麻薬や人身売買をする彼らを恥として差別化している一方、東欧系ロマは自らを本物のロマとし、ヒターノを軽い存在と見なしている。このように一国内においてすら、「本家」と「元祖」のようなジプシー同士の差別意識も深く根強いものになっている。


※2. 十六世紀、大航海時代のポルトガルはロマをアフリカの植民地へ、後へブラジル、さらにインドへ強制返還しようとした。その百年後にはフランスもロマをマルティニクとルイジアナへ送っているし、イングランドとスコットランドも西インド諸島へ船で送りつけている。歴史家アンガス・フレーザーが注目するのは、この奇抜な排除の方法が歓迎されたばかりか、奴隷として労働力を提供することにもなって有益だとされた点である(ロマが船荷として送られたのはアフリカ人奴隷より早い)。なぜならロマの輸送は帝国内のことであり、厳密にいうと国外への強制移送ではなかったからである。

※3. 多くの原始社会において、その制度の「外」へとはじき出された人々の芸能が発達したのは、なにもロマだけに限ったことではない。西アフリカの語り部であり、吟遊詩人として民族伝承を楽器の弾き語りで演じるグリオ griot は、極めてラジャスタン地方の芸人に近いし、フランスのジョングルール Jongleur、スペインのロマンセーロ Romancero、ギリシャのレンベーティカ Rebetika などもその原点は明らかに流譚に追いやられた放浪者の歌であった。アジアでもスリランカのバイーラ Baila、インドネシアのクロンチョン Kroncong 等々、王族と庶民(農民)といった古代社会のシステムの外側で専門的音楽芸能集団として生きた人は、世界各地に存在したのである(リンク先はすべてWikipedia。英単語のリンク先は英語/スペイン語版)。

※4. 各国によってロマニ語の使用状況は大きく異なる。ピーター・バッカー Peter Bakker の統計によれば、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、デンマーク、ギリシャ、マケドニア、モルドヴァ、オランダ、ノルウェー、ポーランド、ルーマニア、セルビア・モンテネグロ、スロヴェニア、スウェーデン、ウクライナなどでは約九〇%以上のロマがロマニ語を話していると想定され、フランス、ドイツ、トルコなどでは約七〇%、チェコ共和国、フィンランド、ハンガリーなどではその比率は約五〇%、そして、イギリスやスペインにいたっては、その比率はそれぞれわずか〇.五%と〇.〇一%まで低下する。
 実際には六十種類以上の方言があるとされるが、異なる方言間での意志疎通は可能であるという。ヤロン・マトラス Yaron Matras によれば、ロマニ語は大きく七つのグループに分けられ、シンティとマヌーシュの言語は北部グループとして同じ枠に入り、スペインのヒターノが話すカロ語、もしくはロマノ・カロ語はイベリアグループに入る。さらにほかの学者によれば、カロ語は、ロマ起源の単語がその土地の言語に取り入れられて発展したパラ・ロマニ語と呼ばれるグループして分類されており、ロマニ語の原形はほとんどとどめていない。


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